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最上義光

社会

最上義光

もがみよしあき

戦国時代の武将。羽州探題斯波兼頼の子孫で、奥州大崎氏の分家筋にあたる。

最上義守の嫡男で伊達政宗の伯父(実妹の義姫が政宗の母)。山形城(山形市)に生まれる。

父・義守と対立し、これを隠居させると弟・義時と家督を争って殺害。

天童氏・大江氏・白鳥氏などは反義光包囲網を形成するが

ことごとく滅ぼすか従属させ、山形24万石を確固たるものとした。


天正16年(1588)の伊達・大崎合戦においては

本家にあたる大崎氏に援軍を派遣伊達政宗を破った。

だが、その際に妹で政宗の母である義姫(保春院)が仲裁に入り

両軍は和睦。それまで断続的に衝突していた伊達氏と最上氏は

けん制し合いながらも同じ陣営に属するようになる。


関ヶ原の合戦では東軍に属し、上杉軍と激突

山形城の近くまで攻め寄せられるが、長谷堂合戦にて撃退

その功により57万石の大大名となる。

また、領内の租税を減免し、北楯利長をして治水事業を行う*1など

内政に力を入れたことでも知られている。

1614年没、光禅寺(山形市)に葬られた。


家臣団には氏家守棟といった譜代の家臣のほか鮭延秀綱、延沢満延、楯岡満茂など主に

国人領主を厚遇した。特に志村光安は長谷堂城攻防戦では地の利を生かして

上杉軍を悩ませた名将。

一方で、家臣団を優遇したことは、それぞれの発言力を強めるだけでなく

派閥を形成することとなり、孫の義俊の代になってお家騒動が発生。

改易の憂き目に遭ってしまった。

なお、四男の山野辺義忠は最上氏改易後、水戸徳川家に仕え家老となった。

*1:現在でも「大学堰」として知られている