享保15年〜寛政6年(1730〜1794) 京都城西鳴瀧(現・京都市右京区)の生まれ。名を思孝、主計、おきみ正親。号を介堂・海堂または自ら三熊花顛(花顛は「花狂い」「桜狂」の意。※「顛」とはいただき・先端又は癖・癖狂い)と称した。桜画の始祖である思孝は江戸時代を代表する人物伝『近世畸人伝・続近世畸人伝』の草案・執筆者でもある。