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山崎春美

アート

山崎春美

やまざきはるみ

1958年大阪府出身。編集者、ライター、ミュージシャン。山崎春美ペンネームで本名ではない。


1975年、17歳の高校時代から、阿木譲編集の「ロック・マガジン」に音楽についての美文を書いて注目される。

1976年、「ロッキング・オン」の岩谷宏らとともに、窪田晴男と知り合う。


のち、浪人時代の1977年に上京。高校生だった浜野純?と、浪人生だった大里俊晴と、明治大学現代音楽ゼミ(園田佐登志?主宰。のち、明治大学から独立し、フリー・ミュージック・ソサエティと改名する)で知りあい、アナーキーハードロック・バンド「ガセネタ」を結成。

吉祥寺の当時はライブハウスだった「羅宇屋?」(現在はインド音楽喫茶)や、ジャズ喫茶だった「吉祥寺マイナー」(佐藤隆史?主人)を強引にライブハウスに買え、主にその地で活動する。

羅宇屋では、工藤冬里女子校生現代音楽ユニット「火地風水?」らと対バンする。また、「マイナー」では「東京ロッカーズ」の面々と顔をあわせた。

また、音楽評論家間章と交友する。だが、1978年に間は死去。また同年には、山崎らがリスペクトしていた阿部薫も死んだ。

「ガセネタ」は1979年解散。


また、1977年佐内順一郎高杉弾)としりあい、高杉創刊の自販機雑誌『JAM』の編集に、1878年に途中から参加。また『遊』(工作舎)増刊号を編集。松岡正剛の「遊塾」(日遊塾)にも入るが、退塾する。

1980年4月には、日大芸術学部に入学するが、退学していると思われる。


1980年4月に、やはり自販機雑誌『HEAVEN』創刊に参加(初代編集長は佐内、二代目編集長は近藤十四郎)。だが、同年11月に佐内、近藤らが脱落したため、山崎が三代目編集長に。野々村文宏を副編集長兼ライターとし、また、工作舎香山リカをスカウトし、ライターデビューさせ、彼女のペンネームのなづけ親となる。やはり工作舎でスカウトした祖父江慎にデザインを頼む。だが、やがて、山崎は「家業を継ぐ」と称し、1983年に大阪に帰郷(実際は精神病院に入っていた)。以降の『HEAVEN』は香山リカ、及びデザイナー陣が編集した。

また、鈴木いづみとも交流があった。鈴木は山崎をモデルにした「ラブ・オブ・スピード」という小説を書いている(『恋のサイケデリック』収録)。

また、細川周平とも、雑誌のブレイン的に交際していた。


音楽活動では、1981年、山崎の公私にわたるパートナーである「ロリータ順子?」らと、ニューウェーブ・バンド「TACO」(タコ)を結成。なお、山崎は異常なまでに女性にもてたため、順子以外にも多くのとりまきの少女たちが、同居していた。

1982年には「自殺未遂ライブ」を行い、手首をナイフで切り、救急車で運ばれた。その際のバンドメンバーは、細川周平篠田正巳、菅波ゆり子?だった。会場でのドクター役は、まだ医大生だった、香山リカがつとめた。

1983年、ファーストアルバムとして、自主制作レコードレーベル・ピナコテカレコード(佐藤隆史?主催)から「タコ」をリリース。内容的には、山崎春美大里俊晴佐藤薫EP-4)、野々村文宏の4人による即興ファンク演奏に、ゲストミュージシャン(遠藤みちろう町田町蔵坂本龍一工藤冬里、菅波ゆり子?(パンゴ)、篠田昌已じゃがたら)、細川周平坂本龍一(YMO)、川島バナナ上野耕路ゲルニカ)、栗沢いずみ?工藤冬里、ロリータ順子?杉山晋太郎宮沢正一成田宗弘、山本土壺?、今井次郎?石渡明廣武邑光裕、井上重明?、高橋文子?、遠藤昌美?、クー?、0123?ゼロ、後飯塚僚?、NON?、奥田大三?ら)が参加。なお、「香山リカ」もクレジットされているが、これは別人(当時、山崎は様々な人「香山リカ」名義を使わせたという)

レコードジャケットは花輪和一合田佐和子が担当し、自主制作レコード界では、驚異的ヒットを記録。

1983年には、伝説のイベント「天国注射の昼」を実施した。

1984年には、セカンドアルバム「タコ2nd」を発表。1983年秋の法政大学でのライブ盤であり、参加は、佐藤薫野々村文宏大里俊晴のみだった。


また、宝島にコラム「ヲンナコドモ新聞」を1984年まで連載。レイアウト霜田恵美子だった。


1986年には、町田町蔵、元「INU」の北田昌宏?と、至福団?」を結成。カセット・ブックとして「どてらいやつら」をリリースした。


1996年には、「ロフト・プラスワン」における、サエキけんぞうのイベント(ゲスト:鈴木慶一)に飛び入り参加して、「あなたがたは勝者で、自分たちは敗者だ」と叫んだ。

同年、「クイック・ジャパン」で山崎春美特集。


参考資料

Sooner or Later

Sooner or Later

タコ大全

タコ大全