志賀重昴

地理

志賀重昴

しがしげたか

文久3(1863)年、岡崎うまれ。明治7(1874)年、単身上京し、生年と同じ文久3(1863)に誕生した英語・数学・航海・天文・測量等の専門塾「攻玉社」に入学。その後、東京大学予備門を経るものの東大には行かずに、クラークで賑やかな「札幌農学校」へ入学した。(内村鑑三は3年先輩。)明治19(1886)年、重昴は自費で軍艦「筑波」に乗船、南洋諸島に向かい、謂わゆる「オセアニア」;カロリン諸島ニュージーランドフィジーサモアハワイなどを調査研究した。明治20(1887)年に民友社の(同い年の)徳富蘇峰の雑誌『国民之友』に触発され、3つ年上の三宅雪嶺・8つ年上の杉浦重剛と共にこの翌年(明治21=1888年)政教社を起こし、『日本人』を創刊、国粋主義資本主義まで接木して、日本の開花とその意識改革を図った。またその後、アフリカ南北アメリカインドパキスタン、欧米諸国を漫遊。……合計42万km地球十周にものぼる大旅行を果たした(17c中葉の仏;ジャン・ピカール以来、地球の全周は40,042km、赤道半径6378km、極半径6357kmである)。大正2(1913)年、岐阜県可児市から愛知県犬山市にかけての木曽川を下った際、景色がドイツライン川に似ていることから、「日本ライン」と命名した。大正11(1922)年、チリのアンデス山脈の谷間で石油採掘の現場を目の当たりにし、「油の供給の豊富なる国家は光り栄え、油の無き国家は自然に消滅する。油断大敵どころか油断国断だ!」と感銘を受けた。なお著作に、和辻哲郎の『風土』と並ぶ、ランドスケープ論の先駆『日本風景論』がある。昭和2(1927)年、没。