死靈

読書

死靈

しれい

埴谷雄高の大長編小説の名。初出時は時代のため、この様な旧字体であった。…但し全集の第3巻にも敢えてこの旧字が使われている。


日本的な「うらめしや」的怨霊の意ではなく、考える(思惟する)存在者としての「理性的幽霊」の意図を強調する為、「「しれい」と読ませる。1946(昭和21)年、同人雑誌『近代文学』誌上にて連載開始。

この作品は、「虚体」という独自の観念(とすらも言えないようなもの?)に憑かれた人物達を中核とするそれぞれに「極度に観念的」な「独白」を「山場」とする「我が国未曾有」であるどころか、世界文学史上にも稀有であると後には形容されもすることになる「観念小説*1」とされるものであったわけであり、――我が国に於けるジャンルに関わらず総じて観念的なるものが一般的に往々にしてその様な運命に殉ずる路を辿らざるをえなく成るのと同様に、或る意味では当然に――発表当時は、同誌の同人達にさえ理解されなかった、とは本人の弁である*2

しかし、昭和24年以降、結核の再発というのがその理由であると言われているのだが*3死霊」の連載は第4章「霧のなかで」を完成させる前に、途絶する(のであって、この第4章はその後、加筆、そして訂正をも施されて、第1章から5章までを一冊の合本とした講談社刊行の単行本によって初めてその完結した形姿( Bild )を、我々読者の前に現すこととなる)。

1975年、漸く続編の第5章「夢魔の世界」が、やはり「群像」誌上に一挙発表される(この後「死霊」は一章毎に、同誌上に断続的に発表されてゆくことになる。)。――同章は、戦前の日本共産党内に於けるいわゆる「スパイリンチ殺人事件」に範を取って居るかのような内容を持つものとしても、一定の注目に値するのだが、しかしそのことを言うのであれば無論、当時の同時代に生じた衝撃的なあの事件、即ち「あさま山荘事件」に於ける連合赤軍連赤)の悲惨極まる「内ゲバ」と称される一種壮絶たる「内輪揉め」もが、同章の執筆の根本動機の一つとなりえていたのではないか?という問題をもここに提起だけでもしておくことは或いは、必要なことですらあるだろう。

1995年、「死霊」第9章「《虚体論》――大宇宙の夢」が発表される。本来は、全15章もしくは12章から成ることになるという予てからの作者の予告とは裏腹に、同作品の事実上の完結が本章の発表と共に宣せられる(が、これに異を唱える見解もまた少なからずあるのも事実である)*4

評価など

死霊』は今や既にして、「第一次戦後派」を代表する諸作のうちの一つに数えれる、「文学史上」の傑作であると位置づけられても居る(が反対に駄作に過ぎず、そもそも小説ではない、という非難もよく目に付くが、しかしそもそも埴谷本人も、自身のこの作品を、本当は之は小説ではないのではなかろうか?と事実しばしば語ってさえも居るのであることは興味深い事実である)。

さて、続けて肯定的評価をのみ偏頗的に挙げてゆくとすると、現役の作家では、島田雅彦や、最近では川上未映子らが、彼からの何等かの影響を口にしている*5し、西尾維新を初めとするライトノベルの作家達の或る諸作品にも、オマージュの如くに彼に纏わる口吻が、登場しても来る。

また更に、「哲学」(なかんづく「形而上学」)の分野では、池田晶子による彼への言及が近年ではよく知られて居るし、より専門的な研究者としては、鹿島徹の名を第一に挙げないわけにはゆくまい*6

そして更にまた、より一般的な国文学研究の畑では、川西政明水沢不二夫による周密な埴谷研究――両者の研究は共にそれぞれの仕方で、彼の戦前の「地下活動」期をも包括している。――を我々は挙げることが出来る。


最後になったが、埴谷雄高本人が、「死霊」を含めた近代文学誌上の諸作品は、「100年先を目指す」との標語(スローガン)と共に、「時限爆弾」としての性質を付帯している、と生前強い語気でさえ述べ立てていた*7ことを紹介しつつ、漸くにして本稿を閉じたいと想う。

*1:かかる評価についての異論は例えば、熊野純彦埴谷雄高――夢みるカント』(講談社、2010年)の20頁前後を特に参照のこと。

*2:この種の孤独感は、より具体的且つ包括的には、1951年発表の「あらゆる発想は明晰であるということについて」に於いて著者独特の痛切且つ悲愴ですらある或る調子で独自の詠嘆として発現しているように見えるのだ(例えばその冒頭に、「私は死んだふりをしている。どうしてこんなことになったのだろう」とあり、またそもそもエピグラフに、「エイディプスよ、エイディプスよ。何故にかかることにかくも長くかかづらうのか?もはや吾々は立去るべきときなのだ。」というソフォクレスの言が挙げられてある時点で我々は既に、埴谷の無理解からも深く来て居るのであろう悲嘆を、恰も追体験するかの如くに推察することが出来よう者である)、嗚呼!!

*3:つまりこの様に強調的「太字」を用いた訳は、そもそも「死霊」第4章〜同第5章までの26年間ほどにも亙る途絶という或る種の謎とも言いえる空白的沈黙の事態の意味の解明は、この「死霊」という作品に内在する内的諸構造の骨組みの観点から、言い換えればその様な深くテキスト自体に沈潜する試行を可能ならしめる視点から今や、何よりも先ず追尋せらるべきなのではあるまいか?という問題設定にその端を発しているのである。結核が次第に完治の方向・目的へと向けて実際療治されゆくに従って、今度は埴谷は、「外的諸事情に促されて」「一連の政治的諸論文」を描き続けたとされ、その分かかる「畢生の長篇小説」の執筆は滞ることとなった、と一般には説明されて来たのであるが、しかし「「死霊」の世界への帰還」が大々的にさえその作者自身によって宣せられたのは1965年の「読書新聞」紙上のことであり、そこからしても当時の書かれざる続章としての第5章の発表迄には未だ10年の時間的懸隔が存するし、しかも少なくも同時はまだ「死霊」は全15章であるとか全5日間を舞台にする、と作者自身によっても予定せられていた所をも勘案するならば、かかる間の執筆の著しい滞り振りという表面上の消息の内なる深い闇の「底もなき底」には、何かしらこれまで世上にて或いは研究史上にて主張せられてきたことだけでは推し量ることの難しい或る隠された黒い事態が根底的にに伏在・横たわっているのではあるまいか?と筆者は邪推的の穿った心情を逞しくさえ致す者なのである。…ところでさて、筆者がここで提示して置きたいかかる論点との連関で、「埴谷は「政治の季節」に於いて陸続と発表された一群の政治論文を書いたことで、本来死霊に収めるべき政治思想の粗方を、既にそれが書かれるに先んじて記してしまった」というこれもまた一群の解釈群が既に埴谷研究史上に存在するのであるが、そもそも政治論文に書かれた様な形での政治思想がそのまま「死霊」の内の或る核心的諸部分とも結合しうるものであったどうかについては、筆者は懐疑的である。と言うのも、鹿島徹が「死霊」の独特の《観念》追窮的性質への参照を促しつつ、かかる小説の或る一つの山場を成すと作者自身によって予告されたのであったけれども残念乍(なが)ら実際には描かれずに彼が失命し終わってしまったところの首猛夫の「独白」が、しかしもし実際にあの完成諸部分の持つ跳躍的曲芸性をも自在に帯びた文学的諸形象として「白い紙の上」に独特の仕方で定着し得て居たのであれば、例えば他の主要登場人物の奇矯な主張との連関上の影響の線からの推量に於いても、「それは尋常一般の政治革命論に終始すべくもなかったであろう」、という主旨を以って夙に指摘している如く、埴谷の政治的諸論文――尤もそれらもそれら自体として尋常ならざる奇態で異端的でさえもあるような諸観念をこそ濃密に含み込むとすら言えそうでもあるのではあるが――と彼の「死霊」という小説作品の「逸脱」的諸特性との間には、踏み越えがたき巨大な渓谷であるかの如き黒き一線が引かれてあったしあると言うべきであって、このことはまた埴谷自身が繰り返し繰り返し「小説は論文ではないのだから」との常套句に約められる彼自身の小説観に於ける自身の小説への高いハードルの設定を連想させる言辞を弄していたこと、しかもその屡(しばしば)再説(・再演?)される言が、殊に「死霊」執筆の遅滞振りに関して彼の口から漏らされることが少なくなかったことをも回想しつつ指摘されることで、何がしかの補強・補完を期待しうる所の言説であると筆者は論じ、また信ずる。

*4:ところで筆者は、「群像」誌上に発表されたるところのみならず、『埴谷雄高全集別巻』に写真収録されたところのそれの数枚の続稿をも含めない限りは、完結とは言われえないと考える。熊野純彦氏は前掲書に於いて、続稿の部分をも詳細な論証の対象の範囲に含めているのであって、この点に関して筆者は、熊野氏と「死霊」完結の定義を等しく共有していると断定して差し支えないだろう。…ところでやはり同書に写真収録された肉筆遺稿を参照する限り、第9章の原題は「誕生日にて」であったことが推察される。

*5:前者については例えば、『偽作家のリアルライフ』(講談社文庫講談社、1989年)53〜55頁、や、1997年刊行の「群像」誌上の埴谷への追悼文書でもあるところの「首猛夫を甦らせよ!」をも参照されたく、また、後者については例えば、「早稲田文学0」(2007年)を、参観されたく、強く想う。

*6:最近(2010/11)熊野純彦による前掲書が上梓されたことをもこの段落(パラグラフ)内に煩を厭わず特記しておくべきであろう。…さてところで、この段では筆者は、鹿島と池田とを「哲学」の名の下に、同じ研究上の系譜に位置する者達と位置づけたが、より厳密に言えば、両者は截然と区別されてしかるべきである。と言うのも池田の諸研究は、自身の「あら、わかっちゃった」を初めとする「哲学的直観」(?)とでも言える或る内的なものにのみ裏付けられている言説としか言えない側面を濃厚に含み持つからで、つまりこれは、純粋に学問的な客観的の名に値するものではありえない、と言える。一方鹿島の研究は、学的なそれとしてのオーソドクシーを踏まえたものであるゆえ、客観的研究の名を冠するに足るものである。無論哲学という学問は、少なくともこの和訳語では学という語が付されてあるにもかかわらず、学的研究に収まらないところを「濃厚に含み持つ」。したがって鹿島の如き正統的諸研究が無条件に池田のそれに優越するとは到底言いえないのである。…がしかし同時にやはりここでも、学問と非学問との境界線は、それが厳然として厳守せらるべきものとして我々の前に屹立すべきものである、と筆者は、いくら異論的容喙の余地がこれに全くないとは言えないのであろうと思われるにもせよ、考える者である。

*7:「要出典」。読者諸氏の助言を賜りたく願う所以である。