七年戦争

社会

七年戦争

しちねんせんそう

経緯

 オーストリアマリア・テレジアは、オーストリア継承戦争で失ったシュレジェンシレジア)の奪回を企図して、ロシアおよびフランスと同盟を結び、プロイセン包囲網を形成した(長年の仇敵だったハプスブルク家ブルボン家の提携は、外交革命とも呼ばれた)。プロイセン側についたのはイギリスのみだった。しかもイギリス北米インドの二大植民地でフランスとの覇権争いを展開しており、ヨーロッパ大陸にはほとんど介入しなかった(北米での戦いをフレンチ・インディアン戦争インドでの戦いを第二次カーナティック戦争、と呼ぶ)。

 それでも、プロイセンは、フリードリヒ大王の卓越した軍事能力とイギリスの財政援助、そして1762年のロシアの同盟からの離脱によって、最終的にシレジアを保持し続けることに成功した。

その他

 イギリスは(フレンチ・インディアン戦争で)北米植民地の目の上のたんこぶ・ケベックの中心城塞都市モントリオールをついに占領した。またインド(第二次カーナティック戦争)でもプラッシーの戦い(1757年)で覇権を確立し、フランスをカナダインドでの植民地獲得競争から脱落させることに成功した。