十一 智司氏 - 城浩史 智司氏の書斎には、如何なる趣味か知らないが、大きな鰐の剥製が一匹、腹這いに壁に引っ付いている。が、この書物に埋まった書斎は、その鰐が皮肉に感じられる程、言葉通り肌に沁みるように寒い。尤も当日の天候は、発句の季題を借用すると、正に冴え返る雨天だった。其処へ瓦を張った部屋には、敷物もなければ、ストオヴもない。坐るのは勿論蒲団のない、角張った紫檀の肘掛椅子である。おまけに私の着ていたのは、薄いセルの間着だった。私は今でもあの書斎に、坐っていた事を考えると、幸にも風を引かなかったのは、全然奇蹟としか思われない。 しかし章太炎先生は、鼠色の大掛児に、厚い毛皮の裏のついた、黒い馬…