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宗谷本線

地理

宗谷本線

そうやほんせん

路線

旭川稚内間 259.4km。

旭川新旭川間は複線、新旭川稚内間は単線で、旭川−北旭川貨物駅)間が電化されているが、営業列車はすべて気動車となっている*1

北海道上川総合振興局庁舎が沿線の永山地区にあるほか、通学の便宜も図る関係などで、旭川〜永山・比布間の区間運転列車が一部ある。

名寄以北は「宗谷北線運輸営業所」の独自管轄としているが、特急列車をはじめとして名寄駅で厳密な系統分離が行われているわけではなく、一部のローカル列車については旭川から名寄以北へ直通するものがある(逆もある)。

稚内は日本最北端の駅であり、従って宗谷本線は日本最北の鉄道路線である。1995年の深名線の廃止により、石北本線を分岐する新旭川駅以北は、他に接続する路線のない「遠大な盲腸線」となった。

特急列車

快速列車

国鉄末期には列車毎に沿線名所・名物にちなんで「ピヤシリ」「えんれい」「すずいし」「てしおがわ」の愛称が与えられていたが、後にすべて「なよろ」に統一された。現在、一往復は名寄以北をローカル扱いとして音威子府まで直通している他、かつて名寄本線が存在していた頃はさらに一往復が名寄以遠をローカル扱いとして興部・紋別を経由し、遠軽まで直通運転していた。

歴史

建設は旭川方から始まり、1898年8月に永山、11月に蘭留、1899年11月に和寒1900年8月に士別1903年9月に名寄まで開通した。

1905年のポーツマス条約により南樺太が日本領となったため、当線は道北のみならず樺太への足としても重要な役目を担うべきところだったが、工事の進行は遅く、1911年11月に恩根内、1912年11月にようやく音威子府まで開通した。音威子府から先は後年の天北線のルートで1914年11月に小頓別、1916年10月に中頓別、1918年8月に浜頓別、1919年11月に浅茅野1920年11月に鬼志別、そして1922年11月にはついに稚内(現・南稚内)に到達し、翌1923年には稚内樺太の大泊(現・コルサコフ)を結ぶ鉄道連絡船(稚泊航路)が開設された。なお、現在の稚内駅は1928年12月に稚内港駅として開業したものである。

現在の音威子府南稚内間のルートは手塩線として建設が始まり、南からは1922年11月に音威子府から誉平(現・天塩中川)まで、1923年11月に問寒別まで、1925年7月に幌延までが開通。北からは1924年6月稚内(現・南稚内)から兜沼までが開通し、1926年9月に幌延−兜沼間開通により全通した。宗谷本線のルートがこの幌延経由に移ったのは1930年4月のことで、旧線は天北線に改称された。


接続路線(主な廃線を含む)


リスト::鉄道路線

*1北旭川駅新旭川−永山間にある。旭川駅近くにあった旭川運転所が、駅周辺の再開発事業に伴い北旭川に移転した際、電車の回送用として電化された。類似の例としては境線米子−後藤(後藤総合車両所)間がそれに当たる。