終戦の聖断

一般

終戦の聖断

しゅうせんのせいだん

1945年8月9日〜10日及び、1945年8月14日の御前会議(そしてそれに付随する最高戦争指導会議と重臣会議)で行われた、大東亜戦争太平洋戦争及び日中戦争)における事実上の無条件降伏勧告であった『ポツダム宣言』の10日及び14日の2度天皇自らの発言での受け入れ決定を指す。

8月9日深夜以降の会議

深夜、最高戦争指導会議が開催されたがポツダム宣言受諾に関し、意見は真っ二つに割れていた。要点は、東郷茂徳外相米内光政海相平沼騏一郎枢密院議長は、国体護持を唯一の条件として受諾すべきだとしたのに対し、阿南惟幾陸相、梅津美次郎参謀総長豊田副武軍令部総長は、国体護持の他、1)本土の保障占領をせざること、2)在外日本軍は降伏、武装解除なしで撤退という形をとらしめること、3)戦争犯罪人については日本がこれを処罰する、の三点を付随せしめることを説いて譲らなかった。

 その後の閣議においても平行線が辿られ、八月十日に開かれた最高戦争指導会議の場において、ついに首相は三対三の意見になったため決を採る代わりに、「議をつくすことすでに数時間に及べども議決せず、しかも事態はもはや一国の遷延を許さず。まことに異例でおそれ多きことながら、聖断を拝して本会議の結論といたしたく存ずる」と発言し大元帥でもある天皇にご聖断を仰いだ。

 天皇は、まず外相の意見に賛成の旨を仰せられ、

 大東亜戦は予定と実際とその間に大きな相違がある。

 本土決戦といっても防備の見るべきものがない。

 このままでは日本民族も日本も滅びてしまう。国民を思い、軍隊を思い、戦死者や遺族をしのべば断腸の思いである。

 しかし忍びがたきを忍び、万世のため平和の道を開きたい。

 自分一身のことや皇室のことなど心配しなくともよい。

 (中略、以下「大東亜戦は予定と実際とその間に大きな相違がある」の内容である。

 九十九里浜の防備について、参謀総長の話したところと侍従武官の視察せるところと、非常な差があり、予定の十分の一もできていない。また決戦師団の装備についても、装備は本年の六月に完成するという報告を受けていたが、侍従武官査閲の結果では、今日に至るも装備はまったくできていない。かくのごとき状況にて本土決戦とならば、日本国民の多くは死ななければならない。いかにして日本国を後世に伝えうるのか。

(「終戦秘史」106〜107ページ)

の述べられひとまず、『ポツダム宣言』の受け入れが「国体護持」の留保つきで決定した。

しかし、八月十二日朝、米国バーンズ国務長官から回答の

天皇の権限は連合軍最高司令官の制限の下に置かるるもの(Subject to)とす」

日本国政府の確定的形態は、日本国国民の自由に表明する意志により決定せらるべきものとす」

が問題となり、これでは、唯一の条件、国体護持すら守られないことになるではないかと唱えた、阿南陸相と両統帥部総長は頑強に再照会を主張し、譲らず、閣議も、翌日九時から開かれた最高戦争指導会議も割れた。再照会に絶対反対したのは東郷外相で、鈴木首相と米内海相がこれを支持した。

 しかし、十四日朝、米軍飛行機が連合国側の回答をビラにして撒布しているとの報が入った。そのビラを侍従から受け取った木戸幸一内大臣は、「このままでは軍がクーデタを起こす」と一驚し、天皇に拝謁した。

すでに再照会をしている時間的余裕はない旨を告げた。天皇は、異例であるが、御前会議を自ら開催し、天皇が臨席すると、鈴木首相はこれまでの閣議の経過を逐一申し上げ、「改めて、重ねて聖断をあおぎたき旨」を奉答した。

 阿南、梅津、豊田三軍人は各々立って国体護持の点に疑念あることを上奏し、安部源基内務大臣も手に原稿らしきものを持っていたが、鈴木首相が「意見を申し上げるものはこれだけでございます」と言ったので、着席した。

 そして天皇は、頷いて

「外に意見がなければ、わたしの意見を述べる。皆のものは、わたしの意見に賛成してほしい」と明確に言葉を発せられた。

この御諚を拝するうちにここかしこに嗚咽涕泣の声が高まり。軍部も聖断に服した。

これにより、『ポツダム宣言』の正式な受け入れが決定し、翌日正午、天皇自らが発言した玉音放送が発せられ、ここに日本の終戦(敗戦)が決定した。