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小林一三

(一般)
こばやしいちぞう

小林一三
明治6年(1873年)1月3日〜昭和32年(1957年)1月25日
阪急グループ創業者。
山梨県出身。慶應義塾大学卒

学生の頃は作家で身を立てると心に決める。就職では新聞社を志望するが三井銀行に入る。しかし夜は文章を書き溜め、花柳界に通う。勤続14年の1907年(明治40年)三井銀行を退職。
その後、三井銀行時代の上司、北浜銀行創立メンバー岩下清周から箕面有馬電軌(のち京阪神急行電鉄)設立、経営に参画しないかという声がかかり発起人となる。
ところが箕面有馬電気軌道は沿線利用客が少なく、「人を呼ぶのに動物で呼ぶ」という発想で箕面動物園設立構想をたてる。1910年(明治43年)11月、敷地3万坪の"日本一の動物園"はオープンした。しかし箕面線の利用客は増えず、動物園の管理費はかさむ一方。巨費を投じた箕面動物園は失敗する。この失敗に学び以後は、徹底的なマーケティングを行うことになる。

また彼は半歩先を行くビジネスで人々に新しいライフスタイルそのものを提案し続けた。箕面有馬電気軌道の建設と同時に沿線の土地を買い、宅地として開通と同時に売りだした。これは梅田から宝塚・箕面方面とも15ー20分の郊外で当時の公務員の年収の3ー4倍で手に入るとあってよく売れた。
郊外の一戸建てに住み、日曜日には家族で遊園地やショッピングという新しいライフスタイルに合ったビジネスの答えとしてもうひとつの終着駅で鄙びた温泉地宝塚に目をつけてここに一大施設を造る。これが1911年(明治44年)開業の「宝塚新温泉パラダイス」。この時、温泉だけでなく舞台の上で少女たちが歌や踊りを披露する宝塚少女唱歌隊(のちに1914年に「宝塚少女歌劇団」)を編成する。この宝塚歌劇は後に東京宝塚劇場に発展、さらに映画の東宝にも展開する。

日本で初めて駅とショッピングセンターを融合させた梅田阪急百貨店*1の時にもまず梅田に阪急ビルディングを竣工してから5年間、百貨店をオープンさせなかった。その間、白木屋にテナントを貸し、客の流れ、客のニーズを分析、白木屋の品揃え、陳列方法を研究する。そして1925年(大正14年)阪急百貨店をオープンさせる。

大正7年には阪急社長就任。また東京電灯会社、東宝社長を歴任。
第二次近衛内閣では商工相。夏の甲子園高校野球大会の創設にも尽力した。

元プロテニスプレイヤーで現スポーツキャスターの松岡修造は曾孫。

語録

「世の中で、百歩先の見える者は変人扱いをされる。五十歩先の見える者の多くは犠牲者になる。 ただ一歩先の見える者のみが成功者となるのだ。」

*1:全国の主要都市ターミナル駅の街並みはこのコンセプトを模倣して作られた

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