劉曄は淮南郡成悳県の人で、光武帝の子の阜陵王・劉延の子孫である。若くして許劭にその才能を認められた(193-4年頃か)。揚州では軽俠の者たちが軍勢を抱えておりその頭目たちの中でも鄭宝が最も有力で、皇族の血をひく劉曄を担ごうとした。劉曄は宴会の場でその鄭宝を斬り殺し、その軍勢をとりまとめると廬江太守の劉勳を頼った(199年頃か)。劉勳は孫策に敗れると曹操のもとへ走ったが、劉曄は淮南に留まったようである。曹操が寿春に来ると(209年)、召されて倉曹掾となった。丞相主簿に転じて張魯討伐に従軍し、帰還の際には行軍長史・兼領軍となった。曹丕が皇帝に即位すると侍中に任命された。曹叡即位後からしばらくして、…