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松井秀喜

(スポーツ)
まついひでき

松井秀喜は、日本の元プロ野球選手。愛称は「ゴジラ」。

右投左打、ポジションは外野手・指名打者。背番号は55番。

1974年6月12日生まれ。石川県能美郡根上町(現・能美市)出身。186cm、96kg。

チームメイトの間や地元ファンでは「ヒデ」「マッツーイ」と呼び親しまれる。Web上では顔に見立てたにしこりというAA(顔文字)で呼ばれることもある。

略歴

1974年6月12日、父・昌雄と母・さえ子の次男として生まれる。兄・利喜が野球をやっていたため、小学校時代から野球を始める。元は右利きだが、兄に対抗し左打ちに変えた。

1990年、地元の高校野球の名門校、星稜高校に進学し、1年生から4番打者を務める。夏の選手権出場3回、センバツ出場1回。3年生の夏、対明徳義塾戦での5打席連続敬遠は社会問題にもなった。

1992年、ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。中心選手として活躍した後、2002年FA宣言、ニューヨーク・ヤンキースと契約。巨人の4番からMLBへの移籍という事でマスコミは大騒ぎだった。背番号55は当時のベンチコーチだったドン・ジマーが付ける予定だったが、ジマーから譲り受けた。

2006年のワールド・ベースボール・クラシックの代表候補に選ばれるも、球団の意向などから辞退し、物議を醸した。

2009年ワールドシリーズにて1試合6打点(シリーズタイ記録)や計3本塁打を放つなどチームの9年ぶりのワールドチャンピオンに貢献し、同シリーズMVPを獲得。

2012年12月28日、2012年シリーズ限りで引退を発表。

2013年4月1日、政府は恩師・長嶋茂雄とともに国民栄誉賞を贈る方針を固めた。

2013年5月5日、東京ドームで引退セレモニーと国民栄誉賞の授与を行った。

詳細な経歴

1974年 石川県能美郡根上町(現能美市)に生まれる。
1990年 星稜高校に進学。
1992年 ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。ここで、松井のくじを引いた長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督と出会う。
1993年 プロ入り1年目にして57試合出場11本塁打とまずまずの成績を残したものの、伊藤智仁に新人王を譲る。*1
1996年 年間最優秀選手。
1998年 本塁打王、打点王。
2000年 本塁打王、打点王、年間最優秀選手。
2001年 首位打者。
2002年 本塁打王、打点王、年間最優秀選手。
2002年 シーズン終了後、フリーエージェント権を行使し、ニューヨーク・ヤンキースと契約。
2003年 106打点を記録しチームのワールド・シリーズ進出に貢献、シーズン後半からは日本人選手初のMLB4番打者となる。*2
2003年 惜しくも4票差でMLB新人王を逃す。
2004年 8月7日トロント・ブルージェイズ戦で移籍後初の2打席連続ホームランを放つ。日本人メジャーリーガー初の快挙。
2004年 9月30日ツインズ戦で7回に31号同点ソロ本塁打を放って日本人選手初の3試合連続アーチを放つ。
2004年 ポストシーズン・アメリカンリーグ優勝決定戦で4番を務める。自身の好調もむなしくボストン・レッドソックスに敗退。
2005年 地区優勝を果たすも、エンゼルスに破れリーグチャンピオンを逃す。シーズンオフにヤンキースと4年62億円で契約を延長。
2006年 5月11日、ボストン・レッドソックス戦に5番左翼で先発出場したものの、1回表の守備で負傷し*3退く。
読売ジャイアンツ時代の1993年8月22日から続いていた、日米通算の連続試合出場記録は1768試合で途切れた。
2009年 ワールドシリーズでMVP。
2009年 シーズン終了後、FA権を行使。12月にロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムと契約。背番号は引き続き55を着用する。
2010年 シーズンオフにオークランド・アスレチックスと契約。
2011年 日米通算500号本塁打達成。
2012年 現役引退。
2013年 国民栄誉賞(長嶋茂雄と同時)受賞

*1:高卒ルーキーで10本塁打以上を記録した選手は松井を含めて過去6人いるが、新人王を逃したのは松井のみである。

*2:厳密に言えば日本人選手初の4番は新庄剛志だが、レギュラーでの4番は松井が初。

*3:最低1イニングを守らないと試合出場に加算されない。

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