(1887年‐1957年以降) 福井県武生生まれ。読売新聞記者、1906年ビアトリクス・ポターの「ピーター・ラビット」を「悪戯小兎」として翻案。1908年樺太に派遣、1914年『日本農業雑誌』主幹、1914年青島攻略戦に従軍、帝国聯隊市編纂、1930年旅行時代社社長、34年詐欺罪で収監、1946年『日本歴史』編纂、1947年新日本歴史学会を創立。号を木公。
鉄道駅開業後の島原遊廓ですが、長田幹彦「島原」(『讀賣新聞』大正2年5月4日)には「島原といへば數多い京都の色街のなかで最も古めかしく、そして最も憐れな姿で衰殘の名殘りを留めてゐる唯一の廓であることは云ふまでもない。」「廓へ入ると狭い陰鬱な街筋にはそれでなくてさへ慵い晝さがりの寂しさが一面に漂つて、絃歌のぞめきはもとより女の笑聲ひとつ聞えない。何處の店先をみても降る雨の音に閉ざされて、まるで住む人もない空家のやうにひつそりと靜まり返つてゐる。そして軒並みにつゞいた紅殻塗りの細目格子はいづれも黯んだ濡れ色をみせて、眞靑に色づいた籬のなかの柳の新芽だけが我がもの顔になよなよと靡いてゐる。」と記され…
このあたりの文章の内容は、松川二郎『歡樂鄕めぐり』(大正11年)、同著『全國花街めぐり』(昭和4年)、さらに同著『三都花街めぐり』(昭和7年)まで続けて引用されています 『全國花街めぐり』より