Hatena Blog Tags

松平信子

(読書)
まつだいらのぶこ

参議院議長、松平恒夫の妻。松平恒夫は他に宮内大臣、駐米大使、駐英大使を歴任。
(秩父宮)雍仁親王妃勢津子の母。
【出生】
侯爵、鍋島直大(佐賀藩の最後の藩主。鍋島閑叟の息子)の四女として生まれる。
姉妹に前田利嗣侯爵夫人、梨本宮伊都子妃殿下がいる。
【結婚】
元会津藩主・松平容保の四男、恒夫と結婚。松平恒夫は家督を継がなかったので平民だったが、勤勉優秀の人物を鍋島直大侯爵に見込まれての縁組となった。
松平恒夫は外交官として活躍し(外交官試験首席合格)、小村寿太郎を、その部下として支えた。
後に、幣原喜重郎と並ぶ対英米協調派の代表的な外交官となった。
信子はその間、夫に従い、英国、アメリカで外交官夫人として生活をしている。
【子】
雍仁親王妃勢津子(秩父宮妃殿下)、松平一郎(東京銀行会長)、正子(尾張徳川家当主・徳川義知夫人)
【孫】
松平一郎の子、恒孝は養子として徳川宗家に入り、徳川宗家を継いだ。
【勢津子妃殿下】
当時、皇位継承第二位にあった秩父宮雍仁親王の妃として、松平信子の娘の勢津子を望んだのは、貞明皇后だった。これには、幕末の内戦のおり、朝敵視された会津松平家との和解の意があったという。貞明皇后は、彼女が生んだ四人の息子のうち、長男の昭和天皇以外の三人に、徳川一門・旧幕臣出身の娘をあてがっている。
また、これには当時、外務省のエース的存在であり、英米協調派だった松平恒夫を、「皇族妃の父」にまつりあげることで、政治的な局面での影響力を削ごうとした軍の思惑も絡んでいたとする見解もある。
【戦後、美智子妃殿下いじめ】
戦後の皇室に、松平信子は絶大な影響力を保持していた。皇族妃の母であり、参議院議長夫人であると同時に、徳川一門、鍋島家、前田家、旧皇族をつなぐ位置にあり、女子学習院のOG会、常盤会の会長でもあった。
東宮御教育参与を務め、東宮妃を選任する会議のメンバーでもあったが、学習院色が強いことから外された。
正田美智子の皇室入りには頑強に抵抗し、他の皇族妃や旧華族の中心になって反対した。
正田美智子が皇太子妃になると、その教育係になり、陰に陽に辛くあたり、美智子妃が衰弱する主因を作ったため、皇太子(現天皇)によって東宮御所から退けられた。

このタグの解説についてこの解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。