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松平容保

一般

松平容保

まつだいらかたもり

9代会津藩主。 1835年美濃国・石津郡高須に生まれる。

明治26年(1890)12月5日死去。享年62歳。

会津松平家のしきたり通り、神道にのっとり忠誠霊神と号される。

美濃三万石松平義建(よしたつ)の六男として生まれ、

12歳の時に伯父にあたる

会津藩松平容敬(かたたか)の養子となる。

十八歳で第九代会津藩主に就任。

1862年、体調不良等を理由に難色を示すも、

一橋慶喜(のちの徳川慶喜)、松平春獄らに説得され、

ついに幕府より「京都守護職」を拝命する。

容保は治安回復のため新撰組を使うなどして治安回復に努める。

そして孝明天皇の高い信頼を得、公武合体に尽力し、

薩摩とむすび、尊攘急進派の長州藩土佐藩を一掃する。

しかし、孝明天皇崩御十四代将軍徳川家茂の死去、

そして薩長同盟の結成、さらに十五代将徳川慶喜

戦意喪失などにより、朝廷より逆賊の扱いを受け

鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ逃れる。

しかし、忠誠を貫いてきた将軍徳川慶喜には

江戸城への登城禁止を命ぜられ、さらに朝廷からも

逆賊の汚名を着せられる。

そして会津での孤立無援の篭城戦の末、官軍に降伏、謹慎の身となる。

のち許されて日光東照宮宮司となる。

また、その一生から「悲劇の会津藩主」の異名を持つ。

会津藩新撰組を預かり、金銭面その他の世話を

していたことから、「新撰組の父」とも言うべき人物である。