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上杉慎吉

(一般)
うえすぎしんきち

上杉慎吉 1878-1929

明治後期から大正時代の憲法学者。学生のころ、教授穂積八束から目をかけられたが、上杉は当時キリスト教に心を寄せており、穂積に対しては反感をいだき、ヨーロッパ留学までは、その学説の欠陥を指摘することに努力してきたとみずから語っている。この間、三十八年に『帝国憲法』を、三十九年には『比較各国憲法論』をそれぞれ公刊しているが、この両書では国家を法人とし、天皇を国家の機関とするいわゆる天皇機関説をとっていた。ところが、ヨーロッパに留学して、国家法人説の大家イェリネックに接触して帰りながら、帰国後は、穂積八束の唱える天皇主権説に転向し、一木を経て、先輩教授美濃部達吉らの主張する国家法人説に立つ憲法学者と鋭く対立した。美濃部が四十四年に文部省主催夏季講習会で憲法の講義を行うと、上杉は、穂積とともに、美濃部の憲法論に攻撃を加え、上杉・美濃部を中心に、天皇主権説対天皇機関説のはげしい論争が展開された。穂積が大正元年病のために退官すると、その後をついで東大憲法講座を担任し、同三年には『帝国憲法述義』、十三年には『新稿憲法述義』などを公刊し、美濃部や京都帝国大学佐々木惣一らの唱える立憲主義天皇機関説憲法学と正面から対立する君権主義天皇主権説憲法学を講じ続けた。東大では進歩派の学生の組織する新人会に対抗する七生社を育成したばかりでなく、晩年には軍部と結び、右翼団体の有力な保護者となった。しかしながら、学界では美濃部らの機関説憲法学が優勢で、上杉の学説は重んじられなかったために、うつうつとしてたのしまなかったという。昭和四年五十二歳で死んだが、学説をつぐものは出なかった。

 出典:『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館、2001年)133頁。

五〇年代後半の右翼運動
〔五〇年代後半から右翼の暴力が暴走したのは、岸信介政権から庇護を受けていたからであり〕岸信介自体が東大の反動教授上杉慎吉博士の愛弟子であり、この意味においては、「大日本愛国党」の赤尾敏と双生児関係にたつものであること、岸内閣の性格は著者〔木下半治〕がしばしば指摘したごとく、敗戦以来最もドライな官僚政権であり、これは“政党”内閣の衣を着た“官僚”にほかならないこと、すなわち、政治学的にいえば、一九一八年の原内閣成立以前に日本政治を逆行せしめたものであること、などによるが、しかし、こうした岸信介個人の本質、岸内閣の性格よりももっと大きく、日本の政治がアメリカの戦争政策に引き廻され、その戦略的構想の一環にとり入れられていることに、根本的な意味があったのである。

 出典:木下半治『日本右翼の研究』(現代評論社、1977年)225頁。

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