その新聞は、立て続けに名を変えた。 創刊当時――明治十九年九月には『商業電報』であったのが、およそ一年半後には『東京電報』と改めて、更にそこから一年未満、ものの十ヶ月で再度改名、四文字から二文字へ、『日本』として新生している。 以後は漸く落ち着きを得たものらしい。大正三年十二月の終刊の日に至るまで、この紙名(カンバン)を掲げ続けた。 (Wikipediaより、陸羯南。『日本』新聞主筆兼社長) ――そういう『日本』の報道に。 ちょっとした愚痴、泣き言の類を見出した。重野安繹の挙動をめぐる一幕だ。「抹殺博士」と、渾名で呼んでしまった方が理解は早いやも知れぬ。日本史学に西洋的な実証主義を持ち込んで、…