生理哲学

読書

生理哲学

せいりてつがく

生理哲学は今世紀の哲学の主流となっていくものと思われますが、まだ市民権を獲得するには至っておりません。そこで今回は具体的に生理哲学について触れられた著書の引用によって、この言葉がどのように使われているのかを見て理解を深めたいと考えます。生理哲学の始祖はある日本人ですが、彼はその著書「ホモ・サピエンスの意志への個人的アプローチ」で次のように生理哲学を規定しています。

“生理に関する我々の考察を生理哲学と称することにする。”

しかしこれだけでは捉えどころがありませんので、この方の前掲著書を読むと次の文章にぶつかります。

“人間の生理が人間の意識、考え、哲学を生み出すのであって、病気である場合を除きーーいや病気さえも取り込んでーー人間の生理とは衣、食、住の環境がこれを決定する。さらに血統と気候が加われば、どういう考えを持ち、どうした意識で民族に属しているのかもーーすなわちより細部にわたって人間の意識を決定づけることができる。ある個人がどういう思想や信条に従って行動しているかは、どのような環境で教育を受けてきたかということより、どのような生理状態で考えを取捨選択してきたかによって決まる。”ただこれだけでも一般のはてなユーザーにとっては理解しにくいものです。そこでこの人が公式に発表しているグーグルを検索すると次のような文章にも出会います(関連情報としてURLを登録しておきます)。あまり長々しいと、キーワードの紹介には不適切と判断されるので、以下を紹介して締め括りといたします。

“闘病の意味と不幸の意味。病とは生理不全である。生理不全と闘い続ける意義は、強烈な生への意識を形成することにある。なりふり構わず生に執着すること、それは良好な生理への尽きない憧憬を意味する。ついては天上界に入ることを望んでいることの証となる。現実世界における一切の不幸は幸福への強烈な意志の形成につながり、幸福への強烈な意志は常に何処(いずこ)かの世界で実現されなければならぬものなのに、現実世界では実現されないため、不幸と苦悩がこの世界で尽きることは決してない。意志そのものはどこの世界におかれても実現されることを動機づけられている。もう少し踏み込むならば、幸福が実現される世界があることを人間は皆、無意識に知っているので、人間の意志は現実世界でも自己実現へと絶え間なく駆り立てられる。これがホモ・サピエンスの意志である。そしてこの意志は、ひとたび宗教などによって、自らが実現されるのが来世であるとか、そればかりかその実現のために現世での信仰と忍耐が必要であるとかいう煽動によって、この世界(現実世界)での自己実現を諦めるようになると、苦悩が快楽となり、不幸が幸福になるなど、価値の逆転現象へつながることになる。生理は常に不快感に苛まれながらも、幸福の実現を意識する意志の力を尊重するあまり、不快感を甘んじて引き受け続けることになる。意志を規定しているのは生理でありながら、生理は意志を支配しきれない。これが意志と生理の乖離である。我々は世界のあらゆるところでこの乖離を見ることができる。”(ホモ・サピエンスの意志への個人的アプローチより)

著作名を掲げたのは、信用性と出典の正確さを期するためであり、何ら広告宣伝に使うものではありませんので、念のため。