善導(ぜんどう 613-681)
中国唐代の僧。中国浄土教の祖師の一人。 晩年の道綽に師事し、一般民衆に念仏の教えを広めた。浄土真宗の七高僧の一人。 主著に『観無量寿経疏』(かんむりょうじゅきょうしょ)。
法然や親鸞は善導の書を読み、念仏の教えを善導から継承した。
(日蓮大聖人御書講義第9巻p220) ただし、心あらん人は世間のことわりをもって推察せよ。大旱魃のあらん時は大海が先にひるべきか、小河が先にひるべきか。仏これを説き給うには、「法華経は大海なり観経・阿弥陀経等は小河なり。されば、念仏等の小河の白法こそ先にひるべし」と、経文にも説き給いて候いぬれ。 大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳白法隠没と説いているのと、双観経に経道滅尽と説いているのとは、ただ一つ心なり(同じことである)。されば、末法には始めより双観経等の経道滅尽すと聞こえたり。経道滅尽と云えるは、経の利生の滅すということである。色(実際)の経巻が有ることにはよらないのである。したがって…
長い御書ですが・・・新版御書で20頁ほどありますね~ 7頁ずつくらいに区切って3回で載せても、一回が長い! 頑張って、わかりやすく語訳(通解など)を入れていきますね。 (048) 法華初心成仏抄 建治3年(ʼ77) 56歳 今回も問答形式のお手紙になってます。 お手紙を頂かれたのは駿河国岡宮に住む妙法尼ではないかと言われています。13の問答によって、宗教の正邪や、南無妙法蓮華経が末法弘通の大法であることを論じ、さらに末法の初心の義など、根本問題ご明かされています。 問うて云わく、八宗・九宗・十宗の中に、いずれか釈迦仏の立て給える宗なるや。 答えて云わく、法華宗は釈迦の立てたもうところの宗なり。…
北九州市八幡西区【吉祥寺】藤の花が境内を美しく覆う 北九州市で藤の花の名所といえば、この【吉祥寺】です。 吉祥寺は、浄土宗第二祖、鎮西上人の生誕の地です。 創建は健保5年(1217年)。 隣には、吉祥寺公園が平成10年に開園しており、芝生広場や展望台などがあります。 四月下旬の藤まつり(4月27日~4月29日)は、鎮西上人の開山忌と藤の花の見ごろと合わせて開催されます。期間中は多くの露店で賑わい、地域の郷土芸能として定着している「吉祥太鼓」も披露されます。 近隣からだけでなく市外からも多くの人が訪れます。 野田藤3本は樹齢160年程で、市の保存樹に指定されています。 北九州市八幡西区【吉祥寺】…
『行文類』では、大行について述べられた後、まず経文による引証がなされます。経典に無いことでは仏説とは言えませんから、称名がキチンと本願にあることを経典の上で証明されるわけです。ところで阿弥陀仏の名号を諸仏が称揚讃嘆することは、衆生に聞かせ与える、すなわち衆生に回向するために他なりません。そのように往生の行を回向することを誓われた願だから、親鸞聖人は第十七願を往相回向の願と名づけられています。そして、なぜ名号を回向するかというと、それは阿弥陀仏が本願(第十八願)において、衆生往生の行として称名念仏の一行を選択されたからだとして、続いて選択称名の願と名づけられています。諸仏称揚の願、諸仏称名の願、…
2010/08/30(月)大江淳誠和上 善導大師が『観無量寿経』を解釈されました『四帖疏』の第四巻散善義に、『観経』の三心のうちの第二の深心の意を述べられたましたそのお釈の中に、 「二には深心」と。 「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。 一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。とあるのご文が、この論題のよりどころであります。 ところで宗祖聖人のお釈によりますと、『観…
2010/08/26(木)大江淳誠和上(強調は私がほどこしました)以下引用 『最要鈔』に、信心歓喜乃至一念のとき即得往生の義治定ののちの称名は仏恩報謝のためなり。さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず。とあり、『口伝鈔』には、されば平生のとき、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ、文証・道理顕然なり。と示され、そのほか蓮如上人の『御一代記聞書』『御文章』などにしばしば述べられてあります。 「称名」とは第十八願の上に「乃至十念」とある相続の行のことであって、本願の行者が信心を得たる後に口に南無阿弥陀仏と称える声のことであり、「報恩」とはこれを称える心もちはその称名の功…
2010/01/09(土) 【蓮如上人 『御文章』】〈4帖目第14通 一流安心〉一流安心の体といふ事。 南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)といへり。まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また…
2009/11/25(水) 機法一体について調べておりましたら、加茂仰順師の『真宗の法義』(永田文昌堂 昭和42年発行)の中に次のような文がありました。(なお『真宗の御法義』とは別の本です) たしかに「法体成就の機法一体」という言葉はあります。 ただ、これは「法体成就の上で語られる機法一体」の意味であり、これに対するものは「名号を領受した機の上で語られる機法一体」です。 なお、下の文章は参考のためにあげたのであり、勉強していないと難しいですので、無理して読まれなくてもよいと思います。 機法一体については、安心論題関連の書籍やサイトを見て下さい。一、機法一体について いま申しますように、蓮如上人…
2009/11/20(金) 仏教で因果の道理という場合、「世間の因果の道理」と「出世間の因果の道理」があります。もちろん、「世間の因果の道理」は倫理道徳の範疇であり、仏教で説かれる因果の道理は「出世間の因果の道理」なのですが、阿弥陀仏の救いはこの2つを超えた「超因果」の救いなのです。故に善導大師は「別意(別異)の弘願」と教えられました。超因果というと因果の道理ではないと思われるかもしれませんが、凡夫には分からないということであって、因果の道理から外れているということではありません。「非因非果」とか「浄法界の因果」という言葉もあります。下に、安心決定鈔から引きます。WikiDharmaのページに…
2009/11/14(土)二河白道の譬喩の中の此岸と彼岸の間のことです。二河譬は善導大師の『観無量寿経疏』散善義 上輩生釈 上品上生釈 回向発願心釈に書かれています。当たり前のことですが、『観無量寿経疏』は『観無量寿経』を釈されたものです。『観無量寿経』には「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」と説かれています。ですから、ここに「此岸と彼岸の間は近い」とあるのです。遠くはありません。問題は渡るか渡らないかです。『序分義』には「阿弥陀仏不遠」といふは、まさしく境を標してもつて心を住むることを明かす。すなはちその三あり。一には分斉遠からず。これより十万億の刹を超過して、すなはちこれ弥陀の国なることを…
2009/11/10(火)理解するんじゃないと言っておきながら何だ!とつっこみはなし。信心と教学は別の話です。ただ二種深信は信心そのもので、これを間違っているとまずいです。(知らないとまずいということではありません。間違っているより知らない方がいいとも言えます)というわけで、二種深信について勉強しましょう。今日のサンプルは↓㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦【第13回】一念は真実信心の信相 より次に聖人は、「信相の一念」についてこう教えられている。「一念と言うは、信心二心無きが故に一念と曰う、是を一心と名づく、一心は則ち清浄報土の真因なり」 (教行信証)この意味は、「信相の一念」とは「二心無…
2009/11/07(土)昨日は、親鸞会の教学聖典に取り上げられているお聖教の言葉を、出典別に分類しておりました。多少の数え間違いは御寛恕願うとして、次のような結果となりました。これに基づいた分析は漸次していきたいと思います。少しだけ言いますと、(順不同です)1.阿弥陀仏の48願中、設問にあるのは、第17願、第18願、第19願、第20願の4願のみです。 以前のテキストにあった、第11願、第12願、第13願がありません。 また、同じく以前のテキストにあった五願開示がなくなっています。2.一方、以前指摘したように、三毒五悪段からの設問は8あります。 しかも、多くの人が勉強する1冊目に五悪段の文が5…
2009/10/22(木)仮名遣い、段落は少し変えてあります。七祖の文は註釈版聖典七祖篇所収のものはそちらを参照しました。 一向に専ら南無阿弥陀仏の名号を称念するを云う。大経下巻の三輩往生を説く文には「一向専念無量寿仏」とある。彼の三輩往生段の経文は多義を含むが、故に列祖の経文解釈は一様ではない。解釈の如何によって一向専念の意義も相違点を生ずるのである。 先ず曇鸞大師は浄土論註下に「王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは…
2009/10/14(水)次に散善について述べます。過去の記事は「観無量寿経 覚書 その7」です。散善は「発起序」中の「散善顕行縁」と「九品段」に説かれています。「三福」については、ここなどをご覧下さい。定善と散善について、善導大師は『観経疏 玄義分』に定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。と書かれています。定善は韋提希の請によって説かれましたが、散善は釈尊の自説です。(唯請定善・自開散善、散善は不請の法)定善ができる人となると限られていますので、凡夫のために自ら説かれたのが散善なのです。その散善も仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過…
2009/10/12(月)教行信証総序の「弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。」のお言葉をもって、信心獲得するのに時間がかかると思っている人がいますが、これは親鸞聖人が振り返っておっしゃったことであって、今から「多生」「億劫」もの時間がかかるということではありません。 「多生」「億劫」もの時間がかかるのならば、聖道自力の教えになってしまいます。 阿弥陀仏の救いは、今の救いです。 また「仏法に遇ってから、短期間の聞法を経て救われた人は、実は過去世に善を積んでいた宿善深厚の人なのだ」と思っている人がいますが、それは善導大師との韋提の権実についての論議で破られた、当時の聖道…