承安2年(1172年)〜建久4年5月28日(1193年6月28日) 日本の鎌倉時代初期の武士。河津祐泰の長男。曾我十郎とも称される。 曾我時致の兄で建久4年(1193年)富士の巻狩りが行われた際、弟とともに父の敵である工藤祐経を仇討ちしたが、仁田忠常に討たれた。その後、弟の時致は将軍の源頼朝の宿所を襲おうとしたが捕らえられ処刑された。
・1180年(和暦治承4) 2.21 高倉天皇の譲位により、言仁親王が践祚した。藤原基実は摂政を続けた。(『玉葉』) ・1180年(和暦治承4) 4.9 以仁王は源頼政と共に謀議し、源行家を遣わして、平家追討の令旨を諸国の源氏などに伝えた。延暦寺、興福寺の僧兵の橋梁も取り付けた。(『玉葉』『吾妻鏡』) ・1180年(和暦治承4) 4.27 源行家は甥の源頼朝のもとを訪れ、以仁王の令旨を届けた。その令旨を読んだのは、頼朝と舅の北条(平)時政のみであった。(『吾妻鏡』) ※『吾妻鏡』は、令旨を読んだ頼朝は挙兵を決心したとあるが、実際のところ、政争に巻き込まれたくなかった頼朝と時政は、誰にも知らせず…