大河内正敏

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大河内正敏

おおこうちまさとし

1878年12月6日生 - 1952年8月29日没)は、日本の物理学者兼実業家。

上総大多喜藩主で、子爵大河内正質の長男として生まれる。のち旧三河吉田藩子爵大河内家の婿養子となる(同姓結婚で苗字は変わらず)。

当時経営難の上、特筆された実績のなかった理化学研究所を立て直し、日本有数の科学技術研究機関に育てた3代目ながら理研の実質的な“生みの親”といえる。


1903年東京帝大を首席卒業。

1911年欧州留学(私費)帰国後、東京帝大教授に就任。

1921年9月山川健次郎東大総長)の推薦により、当時経営危機にあった理化学研究所の3代目所長に登用される。

大河内は若手の人材登用を積極的に進め、逆に組織の拡大も進め、研究成果の商品化による人件費&研究資金の調達という斬新な方法で再建はかり、その方法は見事に成功。

理研の関連企業は最盛期には63社を数え、陽画感光紙の製造販売会社は現在のリコーに、人造酒の会社は協和発酵になった。「ふえるわかめちゃん」の理研ビタミンも同じグループ。さらに、世界に冠たるコンドームメーカー「オカモト」も、理研ゴムと岡本ゴムが合併してできた企業。それらの特許使用料と献金・寄付により公的機関でないにも関わらず、潤沢な資金を持つにいたる。

大河内正敏自身は、1925年東大教授の職を辞し理研の所長職に専念するほどであった。

(この環境下で、湯川秀樹朝永振一郎ら超一流の研究者を育て、ノーベル賞受賞者を複数生んでいる)

しかし、敗戦による財閥解体理研グループは解体。

大河内正敏A級戦犯巣鴨プリズンに収容され(起訴はされなかったが、公職追放)、釈放後、失意の中で死去、享年73。

しかし理化学研究所は、大河内正敏が晩年面倒を見た田中角栄により、大河内正敏の恩を忘れず、戦後一研究機関に転落し危機に瀕していた理研を、湯川秀樹朝永振一郎らの過去の実績を理由に特殊法人化して、政府の予算注ぎ込み再建されたのは皮肉である。