第1SS戦車師団

一般

第1SS戦車師団

だいいちえすえすせんしゃしだん

武装SS師団の1つ。

“ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー師団”(Leibstandarte SS Adolf HitlerLAH)と呼ばれる。

改称歴

  • 第1SS装甲擲弾兵師団?:1942年10月22日〜
  • 第1SS装甲師団?1943年10月22日〜

年譜

1933年3月17日
SS「司令部衛兵班ベルリン」として117名で編成。
この後、SS特務班「ツィッセン」となる。
1933年9月
ニュルンベルク党大会において3個中隊に増強。党本部警護隊としてSSアドルフ・ヒトラー親衛連隊(LAH)の名称を正式に与えられる。
1934年10月
3個大隊を持つ自動車化連隊に拡張。その連隊長には総統護衛隊長ヨーゼフ・ゼップ・ディードリヒが就任。
1939年9月
ポーランド戦役で第16軍団に配属。モドリンを経てワルシャワ攻略戦?参加。
戦役終了後はコブレツ?で演習訓練を重ねる。
1940年5月9日
第18軍に配属。オランダ侵攻。
ロッテルダム攻略後ダンケルクまで進出。その後、カンブレー戦区へ移動
1940年6月23日
エティエンヌ到達。
フランス戦役終了後、第12軍に配属。
1941年4月6日
ユーゴスラヴィア侵攻作戦参加。スコピエ、モナスティル奪取に貢献。
1941年4月12日
ギリシア国境突破。カストリア占領。カラマタ方面に進出(バルカン作戦?)。
その後5個歩兵大隊・1個突撃砲中隊・1個対戦車自走砲中隊・1個砲兵連隊・1個装甲偵察大隊・1個高射砲大隊などからなる自動車旅団に増強。
1941年6月30日
南方軍集団に所属。アンノポリ付近からソ連領へ侵攻。
1941年7月末
ウマーニ包囲戦?参加。
1941年8月22日
ドニエプル川に達し、クリミアのペレコブ奪取。
1941年10月12日
ミウス川?到達しロストフ攻略戦?参加。
1941年11月21日
ドン川大鉄橋を無傷で占領。
1941年11月28日
ソ連軍冬季攻勢によりミウス防衛線まで撤退。
1942年
スターリノにて再編成。
その後、フランスのカーンへ移送。
1942年7月15日
SS師団LAH(自動車化)に昇格。師団は3個装甲擲弾兵連隊?・1個戦車連隊?・1個装甲偵察大隊?・1個装甲猟兵大隊?・1個突撃砲大隊?・1個高射砲大隊?・1個装甲工兵大隊?・1個補充大隊などで構成。

○第1SS装甲擲弾兵師団LAH(師団長:ヨーゼフ・ゼップ・ディードリヒSS大将)

1942年10月22日
師団SS装甲擲弾兵師団LAHと改称。
1943年1月22日
東部戦線へ出撃。LAHSS師団「ダス・ライヒ」(DR?)とともにSS戦車軍団を構成。南方軍集団ハリコフ防衛線に投入される。
1943年2月
この時、師団戦車連隊の可動戦車兵力は、II号戦車12両・III号長砲身型?10両・IV号長砲身型?52両・ティーガーI型9両・指揮戦車9両。
1943年2月19日
マンシュタイン元帥は反攻作戦を開始。北西からLAH・DR・トーテンコプフ?師団が、南から第48装甲軍団ソ連軍第6軍に攻撃し、その大半を捕捉撃滅。
その後、SS装甲軍団ソ連第3戦車軍を撃破、LAHはハリコフ市内突入。
1943年3月15日
ハリコフ奪回。
その後、師団を再編成。
1943年7月1日
この時の可動戦車兵力は、II号戦車4両・III号短砲身型?3両・III号長砲身型?3両・IV号長砲身型?67両・ティーガーI型13両・指揮戦車9両。
1943年7月4日
テオドール・ヴィッシュSS大佐が師団長に就く。
ツィタデレ作戦が開始。LAH・DR・トーテンコプフ師団を含むSS装甲軍団はビエロゴロド付近北進。
1943年7月11日
プロホロフカに進出。
1943年7月12日
ソ連第5親衛戦車軍(戦車約850両)と遭遇。プロホロフカで史上空前の戦車戦となる。
1943年7月17日
連合軍シチリア上陸(ハスキー作戦?)により、SS装甲軍団イタリア輸送命令が出る・その結果、ツィタデレ作戦は中止を余儀なくされる。
ドネツ川戦線に投入される。
1943年8月3日
イタリア鉄道輸送。イタリアではミラノ方面に駐屯し、イタリア軍武装解除を行う。またアグラム方面へも部隊を分遣し後方治安任務につく。

○第1SS装甲師団LAH(師団長:前任のテオドール・ヴィッシュSS少将)

1943年10月22日
第1SS装甲師団LAHに改称。東部戦線に復帰。
1943年11月3日
キロウォグラード前面に投入される。
その後、ジトミール方面で防衛戦、チェルカッシーやフーベル包囲陣脱出作戦?でも活躍。
1944年3月
この冬季戦で師団兵力は消耗し、休養と再編成の為ベルギーへ輸送。
1944年6月
この時、兵力はIV号戦車?42両(定数111両)、パンター38両(定数79両)、突撃砲44両(定数45両)と定数の半数程度であった。
1944年6月6日
連合軍ノルマンディ上陸作戦開始。
1944年6月28日
再編成中のままカーン西方に投入され、112高地付近で防衛戦闘。
この後、アヴランンシュを目指し、リュティヒ作戦?において先鋒部隊としてモルタン付近まで進出したが作戦失敗。
1944年8月20日
ヴィルヘルム・モーンケ?SS少将師団長に就く。
1944年8月25日
ファーレーズ包囲陣?を脱出した残余は、ルーアン南方でセーヌ川を渡河、ドイツ本国へ撤退。
1944年末
ラインの守り作戦?のために緊急補充を受ける。
1944年12月10日
この時の師団戦車連隊の戦力はIV号戦車?34両・パンター37両(第2大隊が欠損)で、これに第501SS重戦車大隊?ティーガーII?(ケーニヒスティーガー)15両(後に30両)が配備された。
1944年12月16日早朝
LAHSS第12装甲師団ヒトラー・ユーゲント(HJ)などと第1SS装甲軍団を構成し、ヨアヒム・パイパーSS中佐指揮のパイパー戦闘団?を先頭に前進。*1
1944年12月19日
スタブロー、ラ・グレーゼを経由し、ストゥーモン着。
1944年12月24日
後方補給路を米軍に遮断されて、補給・弾薬不足に陥り、パイパー戦闘団の残余800名は重火器の全てを放棄して、東方脱出。770名が脱出成功。
1944年12月30日
バストーニュ南東リュツルボワで攻撃開始するも突破に失敗。
以後、マルメディ、サン・ヴィトで遅滞防衛戦を行いながら撤退。
1945年2月6日
オットー・クム?SS少将師団長に就く。
1945年2月10日
ハンガリーのラープへと送られる。
1945年2月14日
ハンガリーソ連軍グラン橋頭堡への攻撃(南風作戦?)に投入される。
その後、ドイツ軍最後の攻勢「フリューリンクスエアバッフェン」作戦(春の目覚め作戦)に備え、休養と再編成に入る。
1945年3月1日
この時の可動戦車はIV号戦車14両・パンター26両・突撃砲15両で定数の3分の1にも満たないものだった。
1945年3月16日早朝
LAHHJとともにシオ運河へむけて攻勢を開始。
1945年3月13日
要衝シモントルニャを攻略。甚大な損害を受けた。
1945年3月10日
この時、可動戦車は23両、突撃砲は7両。
1945年3月17日
ソ連軍ウィーン作戦?開始。
1945年3月18日
春の目覚め作戦中止。LAHの残余は北西に撤退。
1945年3月30日
ゾプロン付近でオーストリア国境を越える。
その後、ヴィーナー、ノイシュタット、ロール付近で防衛戦。この後、ザンクト・ペルテン南方でアメリカ軍に降伏。

*1パイパー戦闘団には、SS第1戦車連隊第1連隊のIV号戦車・パンター計70両程度、501SS重戦車大隊?第1・第3中隊のティーガーII20両の他、SS第2装甲擲弾兵連隊第3大隊、SS第1装甲工兵大隊第3中隊、SS第1装甲砲兵連隊第2大隊、空軍第84突撃第84突撃高射砲大隊が配備。

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