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知性単一説

(読書)
ちせいたんいつせつ

これは人間の魂の知性的部分を巡る特に西洋中世時に於いてしばしば問題の俎上に挙げられたところに対する一つの回答の仕方であって、この説を奉ずる一群の人々は、ラテンアヴェロエス主義者と称された。
かかる人間の魂の問題は、直接的には、アリストテレスの『デ・アニマ』に淵源するものであり、この問題を一通り諒解するという簡便な目的の為だけでも、先ず能動理性と受動理性という諸術語群(ターミノロジー)の一通りの説明すらしなくてはならないのであろうが、本稿でこれらを扱うことは激しい叱責と非難とを惹起しかねぬようにも想われるから、筆者はこれらを割愛せざるをえぬ(のだが、それ以前にそもそも、実際このことは、筆者の任に余ることなのである、情けないことだが。)。
それ故問題を限定して捉えたい。
知性単一説は、特にキリスト教者達の間で激しく問題化された。と言うのもこの説を一度認めてしまうや、死後の人間の魂の個別性が失われるゆえ、したがってこれは教義上の問題を惹起するし、魂の個別性が無いと、人間の自由意志による責任の帰属の問題もあやふやとなる危険性が出て来る。したがって知性単一説は、たんに純然たる認識論上の学説的問題点に留まらぬ諸問題を惹起せずには措かないのである。
さて、この問題の解明に当たっては我々は幸いにして、この問題を専門に論じたトマス・アクィナスの論考を手にすることが出来なくも無いのである*1
さてこの様に観てくるとこの問題は、西洋中世に固有の、その点では特殊西洋的問題に過ぎず、我々には直接関知するところが無いとすら早合点する向きが出てくるかも知れぬのでこれについて注意を鋭く喚起したいが為の一言を以下に添えておきたいのであって、即ち、キリスト教の教義上の問題は確かに我々の直接感知する所であるとは限らぬが、自由意志の問題はそうとは到底断言されえない。何時の時代にも責任の問題はいつでもクローズアップされうるものとして我々の行動律の根底に「常に・既に」横たわっているに違いないのである*2
いくら自己決定権・自己決定力は我々には無い、とする論者達であっても、日常生活を送る中で、司法と法の存在をまるきり無視できるわけが無いであろう?と、私はここに、言い残して置きたいのである。

*1:我々はこれの邦訳を幸甚にして、あの上智大学中世思想研究所の編纂になる『中世思想原典集成』シリーズのトマス・アクィナスの巻にて試読することも可能なのである。

*2:確かに法律の全く存しない時代と諸地域とを想定することが我々には出来るが、これは最早本稿がそれらについて、あらゆる仕方に於いて一切関わるところを知らぬところである筈なのだ。

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