知里真志保の闘争

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知里真志保の闘争

ちりましほのとうそう

批評家・鎌田哲哉論文。『群像』1999年4月号掲載。

知里真志保の「怒り」などに焦点を当て、武田泰淳の『ひかりごけ (新潮文庫)』や『森と湖のまつり (講談社文芸文庫)』が検討される。知里幸恵金田一京助などと知里真志保の関係にも目が向けられる。鎌田には著書がないから雑誌にしか載っていないのに浅田彰が絶賛したというだけでえらく有名になっている、ある種の人々の浅田への個人崇拝のあらわれを見て取ることのできるもの。なお知里については藤本英夫『知里真志保の生涯』に詳しい。浅田がそれを読んでいたかどうかは知らない。

鎌田哲哉丸山真男論についで発表した知里真志保論(『群像』1999年4月号)は、その点でも瞠目に値する。彼は、このアイヌ知識人が、もとより日本人に同化するのでもなく、かといってアイヌアイデンティティに安住するのでもなく、あくまでも両者に対する鋭い違和感を怒りとともに生き抜いたこと、それを正面から受け止めることで武田泰淳のいくつかの作品が書かれた(『ひかりごけ』がエッセイと戯曲に分裂するといった形で)ことを、大胆かつ緻密に論証していく。丸山真男論のリファレンスでもあったジョイスがここではさらに生きてくるだろう。アイルランド生まれのこの作家は、母語復興に与せず、あくまでも英語を使ってアイルランド語のように書いた――ドゥルーズガタリの用語で言えば、メジャー言語の中でどもることによってマイナー文学を創造したのだ。ジョイスの、そして知里の怒りは、どちらのアイデンティティにも安住することを拒み、メジャー言語とマイナー言語の残酷な落差に身を晒しつづけることを彼らに強いたのである。注目に値するのは、それを論じる鎌田哲哉が、自らその怒りを生きていることだろう。そこには、マイノリティへの感傷的な感情移入など、かけらもない。ただ、ひたすら燃え上がる怒りがある。それがこの論文に異様な明晰さをもたらし、横断的な力を与えているのだ。『批評空間』で私に対しても罵倒として炸裂したその怒りを、私はあえて肯定し、怒れる批評家の登場を全面的に歓迎する。

浅田彰【領域を横断する怒りの批評】