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中院流

(一般)
ちゅういんりゅう

日本密教の宗派の1つである真言宗(東密)の事相の法流の1つ。
中院流という法流の名は、流祖である明算が高野山の龍光院(中院)に住していたことに由来する。
高野山は後僧正真然大徳に委付され、寿長・無空と相承された。
一般的に中院流は高野山に古くから伝えられる法流であると言われる。
しかし上述の三師の名は挙がっておらず、明算の法脈は京都の成尊からの流れである。
このような事態が起きたのは、偏に真然大徳が東寺より借り入れた三十帖策子の返却を拒んだことに因む。
三十帖策子は無空の代にて東寺長者観賢僧正より返納を求められたが、同師は先師に習いこれを拒否した。
これに対して院宣によって返納を求めようとした観賢であったが、無空は違勅罪を逃れんがために奈良へ流れたのである。
このように真然の法脈は孫弟子の代にて高野山より下山してしまっている。
したがって、高野山の法脈というものを語るのであれば、真然の流れは事実上早い段階で断絶していると言っていい。
なお無空の示寂後、高野山は長保三年(1001)より長和五年(1016)まで荒廃した。

さて、このような高野山の荒廃を悲しんだ祈親上人は復興に尽力した。
そして上人の弟子の明算は、高野山に法流を蘇らせんがために京都より学んだのが中院流の始まりである。

このような中院流の成立に関しては、最も客観的に書かれたものとして大山氏の著作に詳しい。

中院流の研究

中院流の研究

どのような形で修行されているかを知りたい場合には、下記著作が原典として容易に手に入る部類では参考になる。

また中院流は真言宗の野沢根本十二流には数えられていない。
真言宗の一大行事である後七日御修法を勤めるための作法なども相承はされていない。
しかし、高野山の寺院や専修学院など最も門戸の広い法流であるため、実際の修行体系に関しては最も整えられている。

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