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中田英寿

スポーツ

中田英寿

なかたひでとし

山梨出身サッカー選手(ミッドフィルダー)。

1977年1月22日うまれ(ポスト団塊ジュニア)。

甲府市出身。身長175cm

1995年ベルマーレ平塚から18才でプロデビュー。平塚時代にFW→MFコンバート。

2006年7月3日、ホームページ上で、29才で現役引退を表明(nakata.net)。

引退後「人生とは旅であり、旅とは人生である」と言い残し 世界放浪の旅に出、慈善活動に目覚める。

財団法人TAKE ACTION FOUNDATION設立者、アフリカケニアの食料支援をはじめる。

2009年、現在、週刊AERA誌上にて、中田の日本旅行記が読める。

サッカー選手としての中田英寿

かつてサッカー日本代表チームの「黄金の中盤」の一角を担う重要プレーヤーだった。日本が出場したFIFAワールドカップ3大会全試合に唯一出場した実績を持つ。

かつてヨーロッパ南米において日本人選手への評価は低かったが、NAKATAのヨーロッパで成功により、日本サッカーへの世界的認知が高まった。(例えば、「ジャポネーゼ」=サッカー下手くそな日本人 という蔑称があった)

特徴は、キラーパスと呼ばれる鋭く早い前線へのスルーパス。他に視野の広さ、フィジカルの強さ等が挙げられ、「ゲームの場面に応じた一番ベストな行動」を瞬時に読み取って、ポジショニングから確実なパスやシュートにつなげる、その能力は世界的に認められている。元ブラジル代表のレオナルドをして「才能があるのは知っていたが、ここまで凄いとは思わなかった」とまで言わしめたほどである。

メディア嫌いは有名であり、チーム内において孤高の存在となりがちだった。同じく海外で活躍したMF小野伸二がエンジェルパスと呼ばれるのに対し、過酷な走りこみを要求するキラーパスの中田は「異端児」とまで呼ばれた。ドイツW杯のブラジル戦において、試合終了後もピッチにひとりで倒れこみ、宮本恒靖らチームメイトと共に一緒にファンへの挨拶を拒み続けることもあった。代表チーム内において、読書や漫画を好む中田は、コミュニケーション不足の指摘もあった。A代表いり初期は、フィールド上で敬語を使わない中田に対するベテラン勢の心理的反感もあった。

 朝日新聞国歌に関するインタビュー記事に、行き違いがあり、メディア不信となった。「意味を調べれば哀しい歌ですよね、試合前に歌うのはどうでしょうか、批判ではないです」と発言したのが、「ダサイですよねと言った」との記事に歪められた。この誤報は、右翼団体が中田の家族にまで脅迫する事態を招き、問題が大きくなった。

 古舘伊知郎報道ステーションにおいて中田が出演した際は、今までのメディア確執をふまえて、中田自前のビデオカメラを持ち込んだ上でのビデオ撮影となり、権利関係の問題をクリアーした。このように中田英寿には、サッカー選手としての才能だけでなく、プロデュース術、ビジネスなどにおいても才能を発揮した。中田英寿以前の著名人にネット、ブログによる情報発信するタレント、自ら肖像権を管理するタレントは存在しなかった。その意味で中田は、メディアとの新しい関係を提示した画期的なタレントとしての一面を持つ。

 中田は学生時代の早くからジュニア代表選手として、豊富な国際経験をもち、チームメイトと意識の面で行き違いがよくあった。ハーフタイムのロッカールームにて、ナイジェリア選手の身体能力の高さに驚愕したチームメイトと、中田とでは意識のズレが大きかった。このため、西野監督の戦術と衝突した中田はゲーム後半から外された。

 ナイジェリア戦「0-2」完敗の結果をうけ、メディアからの中田バッシングが起こり、中田はメディアと距離を置くようになった。

 DF松田直樹による弁護、「高校生当時は、ナイジェリアの超人的身体能力に絶望的な思いだった」「差は絶対埋まらないと感じていた」「しかし今日対戦してみると、彼らの能力はあの頃と変わっていない。普通にやれば勝利できると感じた」

「中田の意見に賛成だったが、監督のひどい怒りようや世界を経験してない選手の表情を見て、言ってもわかってもらえないだろうと感じた」

ペルージャへ渡り、デビュー戦で名門ユベントス相手に2ゴールを挙げた。その結果、日本人プレイヤーの注目が高まり、

名波、中村といった日本人選手の海外移籍への門戸を開く契機をつくった。

キャプテンシーを発揮する姿勢も見られるが、代表DF中澤によると(雑誌ナンバーより)「最近のヒデさんはちょっとピリピリしすぎている」そうで、チームメイトに対し厳しすぎる面も指摘された。