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中本正智

(一般)
なかもとまさちえ

言語学者・琉球方言学者。1936年〜1994年。沖縄県玉城村奥武島生まれ。

 中本博士は沖縄県玉城村奥武島に生まれ、南国の風土そのままの温かいお人柄であった。人を愛し、郷土を愛した沖縄人の心は『沖縄風物誌』 (一九八四)の生活感あふれる文章と自筆のカットによってうかがうことができる。研究のバックボーンとして、シマンチュでありウミンチュであるという誇りを常に持ち続けていた琉球方言研究者でもある。また、学生に対しては「方言研究はフィールドワークが命だ。資料は自分の足と耳で集めなければいけない」と
口癖のように指導し、自らもその実践者であった。
 中本博士の研究の出発点は、琉球大学の学生時代に発表された「奥武方言の動詞の活用」「沖縄南部の一、二音節語のアクセント」などの論文に見られるように琉球方言の構造の解明にある。
 大学院進学後は、持ち前のヴァイタリティで琉球各地の臨地調査を精力的に行い、精密な記述研究を基盤に、比較言語学的研究、言語地理学的研究へと発展していく。(中略)
【日本列島言語史の記述】比較言語学と言語地理学とを核とし、独自に収集した豊富な調査データと文献資料とによる包括的な言語史の構築が、博士論文の『日本列島言語史の研究』 (一九九〇) として結実される。
中本博士の研究は、琉球方言音韻史の解明に臨み、次いで琉球列島全域の言語地図を完成させ、その上に、日本列島および琉球列島の諸方言を、一つの言語史の流れとして、包括的に、有機的に捉えようと進んでいった。
 晩年は、これらの業績を土台として、東アジア全域にわたる言語史の構築、さらには環太平洋の言語と文化の推移までをも射程に入れた、さらにスケールの大きな研究を目指していた。
「琉球方言学の旗手 中本正智」篠崎晃一 月刊言語2001年2月別冊・特集:言語の20世紀101人(株式会社大修館書店

 那覇から331号を南下したところに、一〇〇メートルほどの橋で繋がった、小さな島が浮かぶ。南国風土の色濃いウミンチユ(海人)の活気に満ちあふれた島、玉城村奥武島で一九三六年、父・中本正智は誕生した。幼少時代は、先の大戦で出征した父に代わって、この島で漁師であった厳格な祖父に育てられている。そのため、一緒にサバ二で海原へと連れて行かれ、追い込み網漁などの仕事を手伝いながら日々を過ごした。海の仕事は厳しく、もし魚を逃すことがあれば、サバ二の上から竿でつつかれ海に沈められたそうである。中本正智のバイタリティあふれる研究の基盤と強靭な肉体はウミンチュとして過ごしたこの時期に築かれたのであろう。
 中本正智の研究の出発点は琉球大学時代に所属した琉大方言研究クラブにある。このクラブは一九五五年に琉球大学に招蒋された服部四郎博士の講義に学問的情熱をかきたてられた学生が仲宗根政善先生の指導のもとに発足したクラブである。初代部長は名嘉順一先生、中本正智はその二代目となった。当クラブは琉球諸方言の臨地調査を活動の中心に据え、琉球方言の解明を志すクラブであり、その成果は機関誌『琉球方言』として報告され、その研究レヴュルは高く評価されていた。中本正智は創刊号で「奥武方言の動詞の活用」を発
表し、これが最初の研究論文となっている。また、学部四年次には沖縄南部44部落の1、2音節語のアクセントを調査し、「沖縄南部の一・二音節語のアクセント」(国語学41)として発表している。このように大学生時代の琉大方言研究クラブをとおして研究者としての芽が育まれたのである。
 一九六一年、東京へ上京し東京大学言語学科で1年間研修生として、服部四郎博士の指導を受け、修了後、東京都立大学大学院へ進学している。当時、大学院での指導教官でもああった平山輝男博士は、琉球方言に深い関心を持たれており、一九六二年から東京都立大学国語学研究室による琉球方言の総合的研究調査が開始されることとなる。(後略)中本 謙 「国文学 解釈と鑑賞」特集:復帰30年の沖縄と琉球方言 http://www.shibundo.co.jp/ 187-188頁 2002年7月号

琉球語彙史の研究 (1983年)

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沖縄風物誌

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日本列島言語史の研究

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日本語の系譜

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