プロ野球選手。
右投右打、ポジションは外野手。背番号は7→5番。
長野北高から1952年、国鉄スワローズに入団。
高校時代は三塁手だったが、1年目から強肩を買われて外野手にコンバートされた。無類の鉄砲肩で、甲子園球場で二塁ベース後方の芝の切れ目からひょいと投げたボールがバックネットの上を軽く越してしまう。レフトの守備位置からホームへダイレクトで返球するのは朝飯前だった。
打っても、入団3年目の1954年には20本塁打。翌1955年には31本塁打で初の本塁打王を獲得し、西鉄・中西太に対して『東のホームランキング』として活躍した。
特に、エースの金田正一が巨人戦になるとめっぽう強かったのと比例して、町田もまた巨人戦となると実にいいところで打った。
金田が花道で六法を踏む派手な歌舞伎役者とするなら、町田はラグビーのフォワードのように黙々と突進していくタイプだった。
1959年にはサイクル安打も達成。しかし腰を痛めて以後、打率も低迷。
1964年に自由契約となった。
1965年、金田正一と共に読売ジャイアンツに入団したが、27試合にしか出場できず、現役引退。
引退後はヤクルトスワローズ、読売ジャイアンツの打撃コーチを務めた。
スワローズOB会長を務めた。