長谷川海太郎

読書

長谷川海太郎

はせがわかいたろう

谷譲次林不忘牧逸馬ペンネームを使い分けた作家。

経歴

明治33年1月17日、明治、大正、昭和の3代を生きたジャーナリスト楽天、あるいは世民と号した長谷川清(のちに改名して淑夫)の長男として新潟県佐渡泊村徳和に生まれる。同年、父・清、佐渡中学を辞任し上京。翌年、函館北海新聞」主筆をつとめた湘南・大久保達のすすめに応じ、渡道を決意。一家をあげて函館に移住する。

 明治45年、函館区立弥生尋常小学校を卒業し、北海道庁函館中学校(現・函館中部高校)に入学する。大正6年、函館中学卒業の直前、前年のストライキ事件に関係したために卒業者名簿からはずされ、退学となり、上京する。この頃の海太郎は英会話に特に熱心で、港に外国船が入ると出かけてゆき、水兵と友達になってはその腕を磨いた。

 大正9年、知人のローラ・グッドウィン女史の帰国に同行して渡米、横浜より香取丸に乗船し、8月4日にシアトルに上陸。オベリン大学に入学するが、11月に退学。職を転々としながら全米各地を放浪する。海太郎はしばしばアメリカ各地から家族に手紙を送り、その手紙のなかでは、三男の濬をスタンリー、四男の四郎をアーサーと呼んでいた。スタンリー・濬には、漁師になることを、アーサー・四郎には床屋になることをすすめ、いずれ、弟達に学校への進学より肉体労働に従事することを、そしてみずから、ビリー(ウイリアム)と称してホットドッグ売りを実践していると手紙のなかで誇った。

 大正13、年貨物船アイオロス号の船員としてアメリカ東海岸を出発、太平洋に出てオセアニアから北上、大連で脱船し、線路満州から朝鮮半島まで南下、関釜連絡船で日本にたどり着く。函館東京の間をいくたびか往復した後、東中野の通称「谷戸の文化村」に家を借り、次男の二郎も同居する。

 大正14年、希代のメンズマガジン新青年」に、エスニックとしての日本移民の生態に取材した、「めりけんじゃっぷ」ものと呼ばれる連作コントを発表、いちやく流行作家となる。

 大正15年、中央公論社社長・嶋中雄作に認められ、「中央公論」への執筆が始まる。谷譲次ペンネームで、「めりけんじゃっぷ」ものやヨーロッパ紀行を書く。

 昭和2年、「東京日新聞」「大阪毎日新聞」専属の新聞小説家として林不忘ペンネームで伝説的な剣戟小説「丹下左膳」の連載を開始。翌年映画化され、丹下左膳の人気が高まる。また、この年中央公論社特派員として夫婦で1年3ヶ月にわたるヨーロッパ旅行に出る。

 牧逸馬ペンネームでは、第一次大戦後の欧米の犯罪記録を読物化した「世界怪奇実話」シリーズや、風俗小説を書く。わずか10年あまりの作家生活で「一人三人全集」16巻にまとめられる膨大な作品を残し、ひとりで3つのペンネームを駆使した3人分の多面的な活躍によって、モンスターとあだ名された。

 昭和10年6月29日、小袋坂の通称からかね御殿で急死。享年35歳であった。

以上「はこだて人物誌」から引用。

http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/hasegawa__kai.htm