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田中玄宰

一般

田中玄宰

たなかはるなか

江戸時代会津藩家老である。通称は小三郎、加兵衛、三郎兵衛。

寛延元年10月8日(1748年10月29日)出生。12歳で家を継ぎ、天明元年(1781年)に34歳で家老に任じられる。家老に任じられたとき、会津藩天明の大飢饉であり、財政も窮乏化していた。そのため、藩政の大改革「天明の改革」を提言し大きな成果をあげるとともに、藩校日新館」を創設、松平容頌・松平容住・松平容衆と三代の主君に仕え、会津藩中興の功労者とされる。

また軍事的才能にも秀で↓下記のような兵法改革も行っており、『鳥羽・伏見の戦い』では中世の延長の旧式装備から、『戊辰戦争』では新式兵法にすぐに切り替えが出来たことも、彼の先見の明があったからとの意見もある。

 会津藩兵学は、藩祖保科正之が最良の兵法を訴求することに熱心であったため、常に良法を求め続けることが藩の体質となっていた。古くは甲州流が用いられ、次いで河陽流が採用されたものの再び甲州流に戻る、という変転を経たのは「正当の軍制を編成するに足るべきの法あらば、速やかに現法を棄てて新法を採るべし」という正之の遺訓に従ったものであったと言っていいが、天明8年(1788)に、当時の家老田中玄宰長沼流軍学と出会い、会津藩の兵制はここに確定することとなる。

 長沼軍学とは、長沼宗敬(号は澹斎)という信州の人を始祖とする軍学で、甲州軍学をベースとしていながら、射御刀は本邦に、節制規律は漢土に、火器は西洋に範を求め、それらを融合して独自の軍学として樹立されたものである。

 宗敬の門人に佐枝政之進なる人物があり、会津藩士木本成理がこの人物に師事して奥秘を授かり、会津へもたらされた。

文化5年(1808年)、樺太での会津藩の北方警備の最中、死去。