三国志の田豫伝にこうある。 >文帝初,北狄彊盛,侵擾邊塞,乃使豫持節護烏丸校尉,牽招、解儁并護鮮卑。 ちくま訳ではこう書かれる。>~そこで田豫を持節護烏丸校尉とし、牽招、解儁とともに鮮卑族を監督させた。 解儁なる人物はこの田豫伝のこの箇所にしか出てこない、詳細不明の人物である。三国志集解にも注釈は無い。だが三国志にはこのようなことはよくある。 さて、これと類似した記述が三国志の鮮卑伝にある。 >文帝踐阼,田豫爲烏丸校尉,持節并護鮮卑,屯昌平。 ちくま訳の転記は割愛するが、 「田豫は烏丸校尉,持節となり、護鮮卑校尉を兼任して,昌平に駐屯した」となる。 では次に、牽招伝を見てみよう。(原文は割愛し…