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藤原道長

一般

藤原道長

ふじわらのみちなが

平安時代中期の公卿。御堂関白と号する。摂関政治の最盛期の政治家として知られる。

康保三(966)年生、万寿四(1027)年薨。

法興院殿藤原兼家の五男。母は藤原仲正女の時姫。同母兄に藤原道隆、藤原道兼。同母姉に藤原超子、藤原詮子(東三条院)がいる。

天元三(980)年に従五位下。寛和二(986)年に一条天皇の治世となると父兼家が実権掌握、道長も蔵人・左少将と累進し、翌年寛和三(987)年に従三位

長徳元(987)年に兄道隆・道兼のあいつぐ死去に伴い、甥の藤原伊周を退けて内覧・右大臣氏長者となり実権掌握。翌年、左大臣正二位となる。

娘の藤原彰子一条天皇中宮として後一条天皇・後朱雀天皇を産み、道長外戚化に貢献した。

しかし、寛弘八(1011)年に三条天皇即位すると、娘の中宮藤原妍子に親王が生まれず、三条天皇との間に確執が生ずる。

長和五(1016)年に後一条天皇即位すると摂政となるが、翌年長男藤原頼通摂政を譲り、従一位太政大臣となる。また、寛仁二(1018)年には後一条天皇中宮に娘藤原威子をいれ、一家三后*1を実現。絶頂期を迎える。

翌年に出家法名行観(のちに行覚)となる。この年に准三后。法成寺を建立。

日記『御堂関白記』は自筆原本が伝わる。

歴史物語『大鏡』『栄花物語』は道長の繁栄を中心として描く。

略年譜

康保三(966)年 :藤原兼家の五男として生まれる。

寛和三(987)年 :左大臣源雅信の娘、倫子と結婚

長徳元(995)年 :内覧・右大臣氏長者になる

長保二(1000)年:娘の藤原彰子(上東門院)が一条天皇中宮になる。

寛弘五(1008)年:藤原彰子が敦成親王(後一条天皇)を出産。

寛弘六(1009)年:藤原彰子が敦良親王(後朱雀天皇)を出産。

長和五(1016)年:敦成親王後一条天皇となり、自らは摂政になる。

寛仁元(1017)年:摂政を長男の藤原頼通に譲る。自らは従一位太政大臣になる。

寛仁二(1018)年:娘の藤原威子が後一条天皇中宮になり、一家三后を実現。

寛仁三(1019)年:出家法名は行観(後に行覚)

万寿四(1027)年:病死。(62才)

妻と子女

*1一条天皇中宮藤原彰子三条天皇中宮藤原妍子・後一条天皇中宮藤原威子。このときに「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」という自賛の歌を作ったと、『小右記』には記される。