1916年3月22日広島県広島市生まれ、1990年10月10日没。
昭和期のプロ野球選手・プロ野球監督。
創生期のプロ野球・国民リーグを経て、ノンプロ日鉄二瀬の監督に就任。
日鉄二瀬で育てた江藤慎一、古葉竹識をプロ野球界に送り込んだ。
また、被爆者手帳を持っていた唯一のプロ野球監督でもある。
1971年7月13日、西宮球場での対阪急戦の7回表に足立光宏投手が江藤慎一内野手に投げた
4球目(カウントは2−1)のハーフスイングを巡って砂川恵玄主審が判定を「ボール」から
「ストライク」に翻し、これに納得いかなかった濃人監督は、40分間の抗議のあと来場していた
中村オーナーの指示で試合続行を拒否。
放棄試合(フォーフィテッドゲーム)が宣告され0-9で負け、阪急に対し300万円を補償した。
10日後の7月23日に東京球場で行われた同じ阪急戦で11-2と敗北を喫し、翌24日の対東映12回戦
から農人監督は放棄試合の責任を「休養」と言う形で取らされその年に解任された。
濃人の後任監督は大沢啓二(後に日本ハム・ファイターズ監督)がコーチから昇格した。
この放棄試合以降、日本プロ野球では放棄試合はない。