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馬越康彦

(一般)
うまこしやすひこ

もともと馬越は「まごし」という呼ばれ方をされていたが、慶應義塾大学経済学部に入学時、父親悌次(ていじ)が戸籍上の姓名には読み仮名がふられていないことに思いを致し、出身地である愛媛県伯方島での呼称に従い「うまこし」という呼び方へと変え、それ以来「うまこし」という呼び名が定着することとなる。元来馬越という姓は「まごし」、「まこし」、「うまこし」と様々な呼ばれ方をされている。例えば日本のビール王、馬越恭平などは「まこし」という呼び名である。 馬越は高校卒業後二浪して慶應義塾大学に入学したが、この時すでに彼はマルクス主義に傾倒しており、浪人中は国語の力や論理能力を高めるためヘーゲル、マルクス、ニーチェ、キェルケゴール、カントなどを立て続けに読んでいた。 馬越は東京大学文科II類を志望していたが、受からなかった(というより、当時の共通一次センター試験の結果が芳しく なかったため、馬越は一度として東京大学の二次試験を受けていない)。が、たまたま母親が出していた願書に従い、しぶしぶ慶應義塾大学経済学部を受験した際に小論文の試験があり、馬越はマルクスの手法による上向法、下向法を駆使しながらヘーゲルの弁証法的な理論展開に取り組み、ほぼトップ合格者となって入学することとなる(卒業式の当日、馬越の才を高くかっていた教授連によりちょっとした悪戯を仕掛けられたこともあったが、馬越は取り合わず無視してしまった)。
馬越は徹底して哲学者や経済学者の原典にあたり、大学へ顔を出すのは週1,2回ほどであった。1年時の数学の答案用紙には「マルクスを勉強しているので数学を学ぶ必要がない」とか、2年時のドイツ語の試験には「ツァラトゥストラかく語りき」などと(いずれもドイツ語で)書いて答案を提出し、散々な評価をされている。アルコールは当時から強く、理想を語りあう仲間がいたので、高歌放吟に明け暮れた大学生活を送った。

大学卒業時はバブル経済の到来直前であり、馬越も時流に乗って信託銀行の端くれに入社したが、3年で辞めてしまう。その後凸版印刷に入社するも、生え抜き組(ほとんどが縁故採用で低学歴)に散々いじめられ、辞表を出している。その先どの転職先でも彼と周囲との力の差が余りにも大きく、軋轢を生じたため、彼が長い期間一企業で職に留まることは少なかった。然しながらこのように転々とした社会生活を送られたのも、彼の両親のおかげであったとされる。特に父親の悌次と母親の和子は息子の言動を注意深く見守っていた。 根なし草のような生活を送っていた馬越は43歳になった時、ニーチェが44歳で発狂したことを思い出し、自分も何か足跡を残そうとして書きあげた著作が「情熱は影を従えて」と「この人を超えよ」の二冊であり、いずれも自費出版で慶應義塾大学図書館、中央大学図書館、小平市立大沼図書館に寄贈し、親しい友達十数名に献本された。 馬越の思想の根本にあるのは、反キリスト者と反実存主義者として、個々の人間存在という立場を超越した人類という種族の在り方を問う姿勢であり、他方では、彼の思想に宿る長年にわたって蓄積された道徳的負というマイナスの遺産とバランスをとるために必然的に出来する「大いなる正」の実現および新たな道徳および人類の新行動指針(規範)の誕生というテーマがどの著書にも取り上げられていて、読者は馬越の著作のどの本から読んでみても、彼の哲学の真髄に触れることは間違いないものと言われている。馬越にとって超えるべき課題は、実存主義であり超人思想であり、永劫回帰説であった。彼は実存主義に対して種の進化主義を、超人思想に対してありのままの人間存在を、永劫回帰説に対しては一回性の生という思想を打ち出し、ニーチェと対立する立場をとっている。さらに対立項の例を挙げると、ニーチェの「力への意志」に対し、馬越は「隷従への意志」を唱えている。馬越の著作には「偏りとバランスの先に」という作品があるが、彼の歴史観は、『偏向および没偏向史観』と呼ばれ、一切の種が偏りとその反動によるバランスの回復を繰り返して歴史が形成されていくというものである。
平成26年9月 覚者となり悟りを啓く。

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