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非コミュ

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所謂「コミュニケーション能力」において劣っていると判定され、またそのために、「コミュニケーションの舞台」にあがる意欲が減衰し、所謂「コミュニケーションの舞台」から退却している人。「協働」「フレキシビリティ」「情動」「差異」が重視されるいわゆる「ポストフォーディズム情報化社会)」化の社会において不利になるとされる。(逆に規律訓練型権力の下での教育では「無駄なコミュニケーション」は排除の対象である)


注:ただし、昨今の議論(2007年4月現在)における非コミュオレ理論グループの定義において語られるケースが多い。

一言述べておくならば、まず「コミュニケーション能力」というものが「能力」として存在するのか、という問題があると思います。能力ならば比較可能なはずですが、例えば二人の人間の間に行き違いが発生したとき、どちらが「コミュニケーション能力」に欠けているかを判断することは不可能だと思うのです。従って、この問題に関しては、都合の悪い人間を権力者が「能力に欠けている」という、客観性を装った基準で切り捨て、反論の余地を与えないという構造を問題にすべきかと思います、とだけ。

http://d.hatena.ne.jp/./Leiermann/20051214#20051214f1

佐藤俊樹) 最近の不平等の語られ方を見ていると、「上」の人たちが見たくないんだなあと強く感じます。知識や対人コミュニケーション能力、たとえば高学歴ホワイトカラーに要求される「マネジメント力」もこの2つと密接に関係していますが、そういう力で社会的な「上」「下」が決まってしまう、しかもそれらを習得するために必要な勉強や意欲が家庭環境に大きく影響されている。そういう状況になってしまうと、言葉を操る方の人たちにとって、そこに機会の不平等があるとはっきりみとめてしまうと、今の自分の恵まれた状況がまさにその不平等の上に成り立っていると認め、それを是正するように迫られることになります。

これはとてもつらいです。だから、そんな問題はできるだけ認識したくない。「上」になれなかったのは、あなたの努力やあなた自身の力が足りなかったからなんだよ、というふうに処理したくなる。

(斉藤貴男) 自分が恵まれていたから今の自分があるというふうに思いたくない。

佐藤俊樹) そうです。恵まれていたから「上」になれたのだ、と認めるのがつらい。言い換えれば、そう認めるだけの強さを持っていない人、弱い人が多い。状況自体がつらいだけでなく、そのつらさに耐える強さが失われている。それがもう1つの理由です。(23−24ページ)

この対人コミュニケーション能力は、不平等という観点から見ると、きわめてやっかいな性質を持っています。自分がいじめられた、不当に恵まれなかったと感じると、この能力は損なわれやすい。不当に何かを奪われたという自己認識を持つと、強い自己不安を抱えたり、他人に対する攻撃性を持ってしまう。優しさとか、人当たりのよさを身につけにくいのです。だから、優しさや人当たりのよさを重視する集団からは排除されやすい。今の若者言葉を使えば、とても「イタい人」として嫌がられ、人格的に評価されなくなるわけです。

http://keizaigaku.seesaa.net/article/9364133.html

「筆者は現代の職業に直結することだけを「現代社会を乗り切ってゆく」基準にするのは問題だと考える(教育でも就労支援でも、政府の若年支援はこうした長年の考えから脱却すべきではないか)。また、現代のビジネスや恋愛で言われている「対人能力」とやらの実態は、他者と対話しながら相互変化するのではなく、他者を自己の領域に巻き込みやりこめる傲慢さであることが多い。また周囲の「空気」「ノリ」を過剰に読んで合わせようとする神経戦である事も多い。それらが「能力」という数値やハウツーになっているに過ぎず、「コミュニケーション」とは言えないだろう。そのため筆者は「対人能力」と「コミュニケーション」を分けて考えたい。」

http://srysrysry.blogzine.jp/meniutsuru/2005/04/post_9d93.html

どうやら「コミュニケーション能力」という言い方のもつ「イヤ〜な感じ」は、個人を競争状態におくことでシステムに従属させようとする新自由主義的な文脈から発せられた言葉であるというところに原因がある、というのは間違いなさそうだ。「対人能力」を総動員してサバイバル競争に参加すべきだ!………社会学者が「コミュニケーション能力」と言うとき、みんな「やる気」を持って働かないと競争に敗れ去って落ちぶれてしまうんだぜ、と暗に脅しているのである。………放っておいてはくれないのである。「やる気」のない奴が増えれば資本主義社会は順調に回転しなくなってしまう。だから「格差」を云々して不安を煽るのだ。

http://araiken.exblog.jp/2091068/


設計・システム開発などの技術職は、他の社員とほとんど会話をせず一日が終わることもあります。人の事を気にかけるよりも無駄な会話をせず、集中することが求められる仕事なのですから、ある意味仕方のないことです。しかし、その結果対人コミュニケーションに関しては、モチベーションも低い上に、スキルも磨かれないまま成長してしまいます。そのような人材がキャリアアップして管理職になると、突然これまで直面したことのない対人コミュニケーションの舞台にあげられてしまう。そして仕事のステージが変わるストレスに対応できず、うつ病となってしまうのです。驚くべきことに、これは本人の責任としてそのまま放置されてしまうことが少なくありません。

http://www.pan-nations.co.jp/skill_1.html

http://d.hatena.ne.jp/./yukihonda/20051111

学力といった認識能力だけではなく、社交性といった感情的知性が重要である」という状態を「ハイパー・メリトクラシー」と呼んでその日本における実態をできるだけデータを使って描こうとしたのが今月末刊行の拙著である。ただし私は、そうした「ハイパー・メリトクラシー」化の趨勢を是認しておらず、いかにしてそれを食い止めるか、という観点から提案をも行っているのだが。

とにかく、いわゆる「ソフトスキル」や「感情的知性(EQ)」が言説上でもてはやされ、現実にも重要性を帯び始めるという「ハイパー・メリトクラシー」化は先進諸国に共通するグローバルな現象であることは、ここで紹介されている論文からもやはり確認される。

http://d.hatena.ne.jp/./yukihonda/20051119

社会のスペクタクル化とは、人間のコミュニケーション能力そのもの−−つまり、人間が世界や他者に向かって開かれているということ−−が商品化され、スペクタクルという物象となって私たちのもとにやってくる事態である。そうなると、私たちは、自分のコミュニケーション能力の行使に対して、ただ観客として立ち会うことしかできなくなるのである。

このようなコミュニケーション能力そのものからの私たちの疎外を、ポスト・フォーディズムにける労働の状況の特徴と捉えているのが、「労働者主義」operaismo, workerism

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/omth2/biblio/biopolitics.htm

ポストフォーディズムの社会では、フレキシビリティがしばしば残忍な相貌すら帯びる支配法則となる。資本と同様に労働者も、臨機応変に対応し、自らを順応させ、たえず好機をつかみとるように目配りを強いられるし、また、異質なグループ、価値のコミュニケーションをたえずおこない、ネットワークを維持拡大せねばならない。こんな状況においては、確固たるアイデンティティなどむしろ障害でしかない酒井隆史 『自由論』 (青土社)p.48

http://www.geocities.com/Tokyo/7830/kouen2003_suzuki.html

http://www.graduates.slis.keio.ac.jp/shodoc/2001/ohba1015.html

さらに敷衍するならば、組織にとっての生産力が問題だった産業社会においては、「個」はあくまで歯車としての役割を担わされていたわけだが、ポスト産業社会においては、こうした「個」の力――なかんずく経営学などで社会関係資本ソーシャル・キャピタル)と言われるような、要するにコネとツテを持ってる奴が偉いという仮説に基づく、それらの可視化――が前景化し、対人プレゼンテーションスキルこそがカネを生む、という状況が生まれつつある。つまりは関係を断絶すること/されることが、社会的排除を生むという、「コミュニケーション負け組は全面的負け組」な事態が、ここに孕まれているのである。

http://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=444

 (1)消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。

 (2)消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。

 (3)消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。

http://www.socius.jp/lec/16.html

http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/

規律訓練型権力の下での教育を受けた(内面化した)人間は環境管理型権力の下では不利になるという罠について。

近代社会は、その秩序維持のために、国民国家という「想像の共同体」を作りあげ、「国民」として人々を統合した上で、その秩序を維持してきた。その役目を担っていたのが近代教育制度とイデオロギーであった。それは、社会を一つにまとめあげるための「大きな物語」、あるいはジャック・ラカンの言うところの「大文字の他者」である。こういった価値観を伝達し、徹底させるために、学校・軍隊・監獄が整備された、ということは既にミシェル・フーコーが指摘するところでもある。こういった、人々を統合し訓練を加えることによっての秩序維持の方法を、東浩紀の言葉をかりれば「規律訓練型」の権カと呼ぶことができる。

http://kingo.t.u-tokyo.ac.jp/ohno/po/environseminar-folder/02hirabayashi.htm

しかしまた、一斉授業においては、少数者の無益なコミュニケーションや、雑音や、うろつきなどによって、人数の集中から生まれる効率的な訓練のメリットが、容易に妨げられてしまうのである。〈要素の局在化〉の原則に基づく取り締まり、各生徒に自分の定まった座席を与えることによる管理は、そのようなデメリットを取り除くべきものなのである。再びキリスト教同胞会の学校の運営規則から引用しよう。「教師たちは、生徒たちが常に自分の座席に すわり、そして教師が生徒たちの手をよく見ることが出来るような具合に その手を置いておくように、要求する。教師は、生徒たちが手で互いに触ったり、物を与え合ったり、サインによって話をしたりすることを防ぐ。教師たちは、生徒たちが常に足を慎ましくきちんと並べ、足を自分の短靴や木靴から決して外に出さないように、注意する。……」

http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/modernite/jmpwtech.htm