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尾崎行雄

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尾崎行雄

おざきゆきお

尾崎行雄

尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月20日)11月20日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、政治家。号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。神奈川県津久井郡中野村(現・相模原市津久井町)又野生まれ。学位は工学士(東京大学)。称号は衆議院名誉議員東京都名誉都民。

11歳まで中野村で過ごした後、三重県の役人となった父・行正に従い、一家も三重宇治山田に居を移す。共立学校(現在の開成高校)を経て慶応義塾に入学するが、塾長の福沢諭吉に反抗して退学、東京大学工学部に再入学する。1882年立憲改進党の創立に参加、1890年第1回総選挙三重県選挙区より出馬し当選、以後旧憲法・新憲法時代を跨いで、衆議院選挙25回連続当選(議員在職63年)*1という記録をつくる。1898年大隈重信内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、ついで大隈内閣総辞職した。 その後、立憲政友会の創立に参加、しかし、地租増徴に反対し脱党。

 1903年から1912年まで東京市長、1914年の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂太郎首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以後中正会・憲政会と移る。第2次大隈内閣では司法大臣となる。

 外交政策においては明治期には対外硬派の代表的な論客として知られ、二次大隈内閣気には強硬な中国政策を主導。そのごは政策実現のために国際協調を主張。

当初はポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった。

1943年翼賛選挙批判を行った演説中に引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(一審で有罪、1944年大審院で無罪確定)。公判通知を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。

戦後の国会でも活躍して民主主義の普及と世界平和の確立のために尽力するが、1953年のバカヤロー解散による総選挙で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。

永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。

相模原市津久井町伊勢市に、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。

東京市長のときアメリカに三千本の桜を送る。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E8%A1%8C%E9%9B%84をもとに加筆。

*1:ともに歴代1位、特に衆議院選挙25期連続当選は、憲法が改正され衆議院の任期が短縮されない限り絶対に破られることがないと思われる不滅の記録と云える

スポーツ

尾崎行雄

おざきゆきお

プロ野球東映フライヤーズ投手背番号19。

1944年9月11日生まれ。右投右打。大阪府出身。

浪商高*1で2年生の時に夏の甲子園で優勝。

2年で高校を中退し1961年入団。

入団1年目から20勝9敗・防御率2.42の成績で新人王を獲得。

1965年には最多勝を獲得するなど投手陣の柱として活躍。


しかし武器である剛速球の投げすぎで肩を痛め1973年に現役引退。


現在は会社員の傍ら、マスターズリーグ東京ドリームスに参加。

2013年6月13日、東京都内で死去。68歳*2

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