富山真順

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富山真順

とやままじゅん

旧名新城真順。沖縄戦時に渡嘉敷村の<兵事主任>だった人物で、「集団自決」の命令を受けたと証言している人物。

兵事主任」は軍の命令を民間人に伝える、きわめて重要な人物であると、沖縄戦史研究家は説明している。兵事主任が重要な役職であることは、例えば2007年8月5日NHKで放送された「NHKアーカイブス・村を変えた246枚の召集令状・NHKスペシャル赤紙が来た村〜誰がなぜ戦場へ送られたのか〜」などが参考になる。兵事主任は本来、召集業務(召集令状を誰に出すか決め、配付する)を行う役人であるが、沖縄戦においては、それに加えて、現地軍指揮官と相談して軍が現地で防衛隊の召集する人数や対象者を決め、軍と民間人をつなぐ役目をおった。更に、陣地構築など軍の作業に現地住民を協力させる上での連絡役となった。

こうした経緯から、「集団自決」の命令伝達においても、兵事主任から自決命令がくるのは自然であったし、それが軍の命令であることは、住民には自明のこととして受け取られた。

なお、曽野綾子がその著書「ある神話の背景」で、渡嘉敷島での住民へ取材をした際には、富山真順には話を聞いていないことが、1990年代の家永教科書裁判での証人尋問で明らかになっている。曽野綾子は島に10日程度滞在した取材を元に住民への自決命令は確認できないと書いたが、最も重要な人物には取材していないことになる。

<「私は自決命令を受けました」富山真順さんへのインタビュー>

出典:朝日新聞1988年6月16日(夕刊)、1945年当時の渡嘉敷村兵事主任富山(新城)真順さんへの取材から。見出し:軍の自決命令 私は聞いた〜渡嘉敷島の「住民集団死」・当時の役場兵事主任ら証言〜呼集し手榴弾配る・まず攻撃、残る一個で…

陸軍を負傷で除隊した富山さんは、1942年(昭和17年)、郷里渡嘉敷村(当時の人口約1300人)の役場に入った。軍隊に詳しいので、翌年、兵事主任に任命される。徴兵のための兵籍簿の管理、予備役兵の定期点呼、出征兵士の身上調査など、村の軍関係事務のすべてを担当する重いポストだった。

(中略)

富山真順は言う「島がやられる2、3日前だったから、恐らく3月20日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近くの国民学校にいた軍から命令が来た」「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」

少年たちへ、一人2個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、1個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る1個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹は言った。

43年後の今になって、なぜ初めてこの証言を?富山さんは答えた。「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」