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富田長繁

一般

富田長繁

とみたながしげ

戦国時代の人物。

最初は、朝倉義景の家臣であったが、対織田戦で朝倉方が劣勢になると織田方につく。朝倉氏が滅ぼされると越前の府中領主となった。その後伊勢長島一向一揆征伐では抜群の功を示したというが、その恩賞が無かったことや、元同僚である桂田長俊との出世争いなどから、1574年に越前一向一揆が勃発すると、織田信長越前国守護代に任じられていた桂田長俊と争い、先制攻撃をしかけ長俊一族を滅ぼし、北ノ庄の信長代官所を襲撃。また、同じく旧朝倉家臣であった魚住景固の力を警戒し、景固と景固・次男の彦四郎を朝食に招きその席で両名を斬殺、翌日には魚住館に攻め込み景固の長男・彦三郎も殺し、魚住一族を滅ぼす。更に一揆勢と組んだ長繁は4月に自らの越前支配の障害となる溝江長逸の溝江城を攻め一族を滅ぼし、応戦する土橋信鏡も平泉寺の戦いで討ち果たす。5月には織田城の朝倉景綱を攻め織田城を陥落させ、一揆へと参加した安居景健らを除く信長の配下となったかつての同僚達を越前から完全に駆逐する。

一時的に越前を支配下に収めた長繁は岐阜信長に弟を人質に差し出し、越前守護の朱印を要求するなど支配権確立を試みたが悪政を施いたため、1575年になると一向一揆と対決。一揆勢14万もの大軍が長繁を討たんと殺到し、長泉寺山付近に追い詰められるが、破れかぶれの突撃を命令。長繁の軍勢は700人余りであったが決死の覚悟のため士気は高く、一揆勢の先鋒を崩壊させると、烏合の衆である一揆勢は逃走を始めいったんは撃退に成功する。

そして返す刀で、合戦を傍観していた安居景健、朝倉景胤の陣にも襲い掛かるが寡兵であるため攻めきれず、一度は兵を引くも間をおかずに再度突撃を下知。この頃には無理な戦を仕掛ける長繁に不満を抱くものが出始め、合戦の最中に味方の小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で射殺された。享年24才。


別名:越前の狂犬。