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武田信繁

社会

武田信繁

たけだのぶしげ

戦国時代甲斐国の武将。大永5年(1525年)−永禄4年(1561年)。武田二十四将のひとり。

甲斐守護・武田氏第十八代信虎の次男。同母兄に武田晴信信玄)、弟に武田信廉。幼名を次郎。左馬助と称す。

通称「典厩信繁」と呼ばれるが、これは官職名左馬助の唐名によるもの。子の信豊も典厩と称されたため、後に「古典厩」と呼ばれる。

幼少より文武に秀でた信繁に家督を譲ろうと画策した父信虎が、兄晴信によって駿河追放された際、その真意を暗黙のうちに悟り、兄を補佐して家中をまとめた。その後も終生兄に忠誠を尽くし、兄晴信も絶大な信頼を寄せた。家中の人望も厚く、武田の真の副大将と評された。

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて、八幡原に布陣した武田本隊への上杉謙信の猛攻から信玄本陣を守り抜き、壮絶な討ち死にを遂げた。信玄は弟の死を深く悲しみ、遺骸を抱いて号泣したと伝わる。また、快川国師は「典厩公の戦死は惜しみても尚惜しむべし」と追悼した。

享年37歳。法名は「松操院殿鶴山巣月大居士」。

墓所は、遺骸を埋めた川中島の典厩寺境内。また、首級は家臣によって小諸に運ばれ、布引山の麓に埋められ墓碑が建つ。

後に、武田家の重臣・真田昌幸が、次男に信繁(後の真田幸村)と名乗らせたのは、武田信繁の武勇と人望を慕ってのことと言われる。

1558(永禄元)年、子の武田信豊に残した「武田信繁家訓」は、武田家当主晴信への忠義、戦場での心構えなどを書き留めたもので、武士の心構えを示したものとして、江戸時代まで広く読み継がれた。