今私がいかなる自由を追求するか、ということを考えると、それは「まともなことを言える自由」へとたどり着くのではないか。 人は事実なき生き物である。真理の発見ではなく己の偏見への居直りに喜びを見出し、真理を求める対話の相手ではなく己の偏見を肯定する詐欺師を求め、そして偏見(=現実)と事実が著しく乖離し認知(思い込み)によってその差を埋められなくなったとき、人は武器を取り破壊的な暴力によって強引に己の現実を事実にしようとするのである。真理(=事実)は誰も求めておらず、せいぜい己の偏見に権威付けを行うための道具として、他者をぶちのめすためのこん棒として、都合よく切り取られた形で求められることもある程度…