平井収二郎(ひらいしゅうじろう、天保6年(1835年)/天保7年(1836年) - 文久3年6月8日(1863年7月23日))は幕末の土佐藩士。
名を義比、号は「隈山」。
土佐勤王党に参加。武市半平太が勤王運動のために藩主を京都に上洛させた文久2年(1862年)には、共に京都に入る。
「隈山春秋」と「帰南日記」を著す。「隈山春秋」は、薩長だけではなく、当時、どのような人々と会ったか、
朝廷ではどのような議論が起こっているのか、など多くの事柄が書きとめられている。
勤王運動を行う藩政改革を計画し、青蓮院宮に令旨を請い、藩政改革を迫ったが、それが佐幕派や山内容堂に疎まれ、失敗。
間崎哲馬、弘瀬健太と共に切腹。土佐勤王党の獄の犠牲者第1号となる。享年は29と28の2説がある。
上士か下士の議論がしばしば起こるが、正確には、上士の最下層、新留守居組の3人扶持だと思われる。
平井加尾(西山志澄の妻)の実兄