厚狭の二基の前方後円墳・長光寺山古墳と妙徳寺山古墳の築造は各々4世紀後半と5世紀初頭と考えられている。 この時期はヤマト王権が武力の他、古墳築造規格の配布や、銅鏡など副葬品の配布などを通じて各地に古墳文化を浸透させて支配地域を拡大し王権を強めて行く、いわば「倭の五王」時代の幕開け過渡期とも言える。 古墳の階層制を見るとその大きさによる序列と併せ、形状的な序列は前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の順であり、中央の王権は当然ながら、地方の前方後円墳に埋葬されているのはその地方の大首長であると考えられる。 山口県西部は律令制の地域国名は長門国(ながとのくに)であり、豊浦(とようら)、厚狭、美祢(みね…