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北条長時

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北条長時

ほうじょうながとき

北条長時(1229年〔安貞3年〕ー1264年〔文永元年〕)

鎌倉幕府の6代執権極楽寺北条重時の子。母は大納言平時親の娘。

父が長い間六波羅探題であったために早くから在京していた。

1245年(寛元3年)従五位下左近将監。

1247年(宝治元年)父重時が連署に就任するのに伴い、六波羅探題北方に就任。鎌倉幕府代将藤原頼嗣の廃立と後嵯峨上皇の皇子宗尊親王の6代将軍擁立に当たって京都鎌倉を周旋、宗尊親王鎌倉に送る。

1256年(建長8年)重時が引退、北条政村が連署に就任するに当たって政村の後任として評定衆になり、後任の六波羅探題には弟の北条時茂が入る。同年11月には5代執権北条時頼が病のために出家するに際し、北条時宗成人までの「眼代」として執権に就任、実権は時頼が握っていた。執権の位置づけが大きく変化した契機とも言えよう。長時以降、得宗家以外の北条氏にとっては執権とはキャリアの最後に到達し得る地位となり、得宗にとっては若い時に就任しておくべき役職になった。さらに執権得宗の分離は得宗専制への第一歩とも評されよう。

1264年(文永元年)7月には病のため執権北条政村に譲り、出家、8月16日に病没した。

子孫は赤橋流として得宗に次ぐ家格を誇る。子ども六波羅探題北方や評定衆の北条義宗、曾孫には16代執権北条守時赤橋守時)や足利尊氏の正室赤橋登子がいる。