牧谿

アート

牧谿

もっけい

1200年後半、南宋〜元にかけて中国南部・揚子江周辺で活躍した禅僧画家。蜀(四川省)の人。無準師範(1178〜1249)の弟子。法諱は法常、日本ではもっぱら号の「牧谿」をもって知られる。詳細は不明だが、呉太素の『松斎梅譜』の記述によると、「至元(1264〜1294)間に円寂」している。

「殷済川」なる画家に就いて画を学んだ。

高価な顔料や墨を用いず、専ら蔗査(=甘蔗の搾りかす)や屮結(=テツケツ、草を結んだもの)を用い、気の向くまま・筆の赴くまま「龍虎」や「猿鶴」、「禽鳥」、「山水」、「樹石」、「人物」などを描いた。

同時代・同国の荘粛や湯垕や夏文彦がボロクソに貶したため、本国での評価は今一つながら、日本では可翁や默庵霊淵(?〜1345?)を始め、長谷川等伯(1539〜1610)や宗達(?〜1640頃)らの絶大なる支持を受け、彼ら「六通寺派」の逆輸入で沈周(1427〜1509)や蘿窓から八大山人(1626〜1705)に至る『花卉雑画』の系譜に一定の影響を及ぼした。

よって、千利休もこれを結構、「生嶋虚堂」などと同じ程に目でている。(当時は単に「和尚様」と呼んでいたようだ。バグワン・シュリ・ラジニーシではないけれども。)

「モッケの幸い」といえば「勿怪」だとか「物の怪」を語源と考える向きが多いが、それでは意味が通らない。茶人に愛玩された「虚堂」は焼かれたり・破られたり散々な目に遭ったが、同じように茶人に愛玩されたこちらの「牧谿」の方はそういう不祥事もなく、ずっと無事なままだったので、国家の安泰や恒久平和を望む意識がどうせなら「牧谿のような幸い」でありたいと願って「牧谿の幸い」と云ったものが始まりである。そういう“戦国”という時代背景を酌まなければ本義は見えてこない。

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1994collection1/tenji_kaiga_48.html

http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Dictionaries/Dictionary%20of%20Chinese%20Painting/Items/painter_mokukei_Muqi.htm