「話し合い」「対話」「議論」で何か事態が好転したり問題が解決したりした経験、あの小学校の教室このかた、まずないままのような気がしている。そういう「学校」における「話し合い」のやり方やその場の雰囲気、そこで使い回される言葉やもの言いなども全部ひっくるめての「そういうもの」に対する、かなり根の深い違和感、不信感として。 そういう「話し合い」系の場で使われる言葉やもの言い、しぐさなどは、それら「学校」の価値観――いや、もっと絞り込んで言うなら「教師」「先生」という一点透視的な光源に照らし出されて可視化される何らかの世界の「そういうもの」に、どうも抵抗なくなじんでゆく/ゆけることの証明でもあった。そし…