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木村蒹葭堂

一般

木村蒹葭堂

きむらけんかどう

江戸中期の大坂で活躍した町人文人、元祖コレクター

名は孔恭(こうきょう)、字は世粛(せしゅく)、号は巽斎(そんさい)、又遜斎(そんさい)とも。通称は坪井屋吉右衛門。「蒹葭堂」の「蒹葭」とは芦(あし)の意で、元々は自宅の堂(書斎)に付けた号。邸宅の庭に井戸を掘った際古い芦の根が現れたことに由来するこの号を、彼は好んで用いた。

1736(元文1)年、造り酒屋を営む町人の子として大坂堀江北詰(現:大阪市西区)に生まれる。病弱であったため家業を継ぐことは期待されず、代わりに草木に親しみ、津島桂庵・小野蘭山(本草学)、池大雅(絵画)など、当時の名だたる文人学者等に師事した。

書画に優れ、博物に精通し、語学にも秀でていたといわれる。出版にも携わり、自身『山海名産図会』や『奇貝図譜』『一角纂考』など著作もよくした。また京都の売茶翁の匙茶に関心を寄せ煎茶をこよなく愛した。

豊富な財力を活かした稀代のコレクターとしても知られ、その2万巻とも伝わる図書や書画、標本、地図などの収集品を見るために「蒹葭堂」を訪れるものは後を絶たなかった。現存する約20年分の日記『蒹葭堂日記』には柳沢淇園、上田秋成、谷文晁といった文人画人のみならず増山雪斎や松浦静山といった大名衆、また薬問屋や植木屋などの市井の人々までがひとし並みに名を連ねている。その数、延べ9万人。

1802(享和2)年正月に67歳で没、菩提寺である大応寺(大阪市天王寺区)には今も墓石が残る。