前回の続き。前回はアップしたあとに気づいたことがあり、追記してある。公孫度は青州に拠点を持っており、曹操陣営の領域である北海郡、城陽郡からであれば袁紹の勢力圏を通らずに遼東半島に行けそうだ。それならば199年以降のどのタイミングに樂浪太守となっても問題はない。ただし、太守任命が公孫度対策と関係あるならば袁紹との開戦前夜の199年に任命するのが自然だろう。 さて、涼茂は遼東半島に渡ると「公孫度はこれを引き留め、樂浪郡へ行かせなかったが涼茂が公孫度に屈服することはなかった。」私の推測では、抑留されることは想定通りで、ただし公孫度の属官任命などは受けず、客分として、曹操陣営の使節として意見を言う立場…