中国三国時代の人物(? - 251年)。南陽郡の人。字(あざな)は季陽。父に呂常。子に呂辰、呂雅。『三国志』に伝がある。
父の呂常に連れられて劉焉と共に益州入りし、劉焉が益州で自立するため道を封鎖すると、戻れなくなりそのまま益州にとどまった。
幼いころに父を失って孤児となったが、音楽に通じ、よく読書に励んだという。
蜀(蜀漢)の創始者である劉備は、塩を専売するために塩府校尉の官を設置し、王連をその職に就かせた。その王連に、呂乂は杜祺、劉幹と共に登用され、官職に就くようになる。以後は各地の郡太守をこなしつつ、物資の調達や補給など、丞相諸葛亮の北伐の後方支援の役割を担った。太守としての仕事ぶりは善政と評価され、名声を得たという。
後に中央での職を得て尚書となり、董允が死去した後には尚書令となった。倹約で質素な人柄で、簡明な仕事ぶりは以前と変わらなかったが、中央で官職を得てからは、法を重視する傾向が強くなり、俗吏を好んで用いたと評価され、郡太守であったころよりは支持されなくなったという。
『三国志演義』には登場しないが、官職が似た呂義という架空人物が登場する。