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壺井繁治

一般

壺井繁治

つぼいしげじ

(この項目を立てた筆者は、詩についてはもとより、この詩人について、良く知っている訳でも、理解している訳でもない。しかし、この詩人詩集を読んで、それなりに感銘を受けたので、そしてまた、私にも理解と評価が出来る散文で記された、以下に掲載する「自伝」を、大変興味深く感じたので、それを中心にして、ここに、キーワード壺井繁治」を作成してみた。)


「自伝(の代わりに)」

 中学五年のころ、自分の顔がひどく気になりだした。そして暇さえあれば鏡をのぞいて見たものだ。だがそこに映る自分の顔はいかにもまずかった。厚い唇。獅子っ鼻。僕のおやじは百姓だのに、顔だけはあまり百姓らしくなく、やや面長で、その鼻は見事で、すこし大袈裟にいえば、ギリシャの彫刻そっくりであった。鏡を見るたびに、そのおやじの鼻が僕の無恰好な鼻と並んで離れなかった。おやじの鼻はあんなに立派なのに、僕の鼻ときたら、また、何故、こんなにも無恰好なのだろうかと、ほとんど絶望的にさえなった。けれども自分のまずい顔を改造することもできない。女であれば化粧というものがあって、まずい顔を多少ごまかす術もあるが、と考えると、いよいよ絶望的となった。こうして思い悩んでいる僕の心理にひとすじの光りが射しこんできた。それは、俺の顔はまずいけれども、世界に一つしかない顔だという自覚に到達したことだった。つまり僕は自分の顔を視覚的にだけ眺めてうんざりしていたのだが、それを「哲学的に」把えることによって、客観的な一つの存在たらしめた。

 ところが、文学をやろうと考えはじめたとき、心理的にまた一つの障害にぶつかった。それは自分の才能にたいする自身のなさであった。顔がいいか、まずいかは、鏡の中に視覚的に映しだせるが、才能というやつは、顔のようにそう簡単には鏡の中に映しだすことはできない。これは顔のまずさからくる絶望よりは、もっと深刻なものだった。僕は少年時代に、文学をやろうなどとは、夢にも考えたことはなかった。一八九八年十月十八日、香川県小豆島で、七人きょうだいの中、男としては末っ子に生まれた僕は、百姓の伜の癖に、はじめは軍人になろうなどと考え、きょうだいの誰もが小学きりだったのに僕だけは無理を通して中学へ進んだ。そして中学五年の春、江田島海軍兵学校の入学試験をうけたところ、近視眼のためはねられた。年来の志望が挫折した結果、ヤケになり、五年生の第一学期に六十日以上も欠席して学校当局や父兄をひと騒がせさせたりした。そしてその年の夏、文学好きの一画学生にめぐりあい、アルツイバアセフの『サーニン』を読むにおよんで、大袈裟にいえば一夜にして、僕の精神に革命がおこった。それは世俗的な一切の権威にたいする否定の精神であり、その否定的精神が同時に文学への僕の目覚めとなった。そして僕は最初の軍人志望などとは、凡そ対照的の文学志望を父兄に打ちあけ、大反対にあった。つまり文学などは天才のやることであって、お前などそんな才能はないのだから、野垂れ死にするような冒険はやめろと、いうのであった。僕が自分の才能について考えはじめたのは、このときからだった。

 それは、いわば「精神の顔」であった。僕は父兄の反対をおしきって、一九一九年から今日まで、約三十数年間詩を書きつづけたが、それはある意味で自分の「精神の顔」をつきとめるための仕事であった。だから昭和十七年の第一詩集壺井繁治詩集』以来刊行された七冊の詩集は、いいにしろ、悪いにしろ、僕の「精神の顔」である。その顔が、世界に一つしかないものであるかどうかについては、僕としてはなんともいえない。ひょっとしたら、ひとの顔であるかも知れない。若しそうであつたら、三十五年にわたって書きつづけてきた僕の詩は、単に活字で紙面を汚しているというだけであって、実質的にはブランクである。これは僕の唇が厚いとか、僕の鼻が獅子っ鼻どころの騒ぎではなく、僕自身にとってはまさに一大悲劇であるとともに、他人から見れば喜劇である。

 あな恐ろしき哉!顔!顔をレアルに映しだす鏡は、さらに恐ろしい。だが、鏡を砕いても、顔は残る。顔をなくそうと思えば、顔そのものを砕かねばなるまい。(昭和二九年)


刊行詩集 (どなたか完備なものにして頂きたい)

壺井繁治詩集』 青磁社  昭和十七年

『果実』     十月書房 昭和二一年

『神のしもべいとなみたもうマリア病院』 九州評論社 昭和二二年

壺井繁治詩集』 真理社  昭和二三年

壺井繁治詩集 戦争の眼』 三一書房 昭和二七年

壺井繁治詩集』 青木書店 昭和二九年