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晏子

(一般)
あんし

春秋時代の人。晏子は尊称で、本名・晏嬰、晏平仲嬰。
父・晏弱は斉の大夫で将軍となった人物。



父が亡くなり、家督を継ぐと同時に服喪に入ったが
当時の君主・霊公は、晋と戦うも敗北。
晋軍が首都を包囲している際も城外のそまつな小屋で服喪を続け
多くの人を驚かせたという。
感動した晋の将軍は、服喪を続ける晏子の静謐を乱したことを詫び
歩俏を立てて戦いが終わるまで手出ししなかった。


服喪を終えた晏子は、大夫として斉に仕え始めた。
晏子は体躯が小さく、武芸に秀でたわけでもなかった。
将軍として名を馳せた父・晏弱と違い
政治の世界で活躍することとなる。
彼の生涯は常に「社稷」が根本にあり
君主でも「社稷」に従うべきとの考えがあった。
霊公の次代の荘公は暴虐の君主として有名だったが
それでも諌めることをやめなかったため、周囲の信頼を集めた。


荘公が臣下によって殺害されると、景公が斉の君主となったが
政争が相次ぎ、重臣たちは党争に明け暮れた。
その際、晏嬰はどの派閥にも属さず、景公に危険が及ぶ場合は
真っ先に駆けつけて守り通したこともあって
景公の信頼を受け、後に宰相となる。


景公は、さほど有能な君主ではなかったが*1
彼が過ちを犯すたびに晏嬰が諌め、自らも国政に手腕を発揮したため
斉の国力は晋に匹敵するまでに成長した。
そのために、晏嬰は、晋の叔向、鄭の子産、呉の季札といった
同時代の賢相の一人として数えられている。特に季札は
斉の政情が不安定であることを見抜き、晏子に官職の返上を助言。
これを受けて晏子はあっさり大臣のポストを返上したり
晋の叔向との会談の際には、互いの国で大夫が力を持ちすぎていることを
愚痴ったりと、幅広い交友関係があったようである。


後人が彼の言行をまとめた書として『晏子春秋』があるほか
司馬遷『史記列伝』「管晏列伝」などにも記述がある。


「枳化して橘となす」のエピソードは有名である。
暴虐で知られる楚王のもとに使者として赴いた際
楚王は晏子を辱めようと嫌がらせを繰り出すが、どれもうまくいかない。
そこで宴の席で、罪人をわざと近くを歩かせた。
「お前はどこの人であるか」と楚王が訊ね
「斉人でございます」と罪人が答える。
「何の罪で捕まったのか」と楚王が訊ね
「窃盗でございます」と罪人が答えた。
楚王は晏子を見て
「斉人は盗みを働くのであろうか」と意地悪く言った。
すると晏子は
「この者は斉にいた時には何もなかったのに、楚で盗みを働きました。
例えば斉には『枳』という植物があります。同じ植物のはずなのに
楚では『橘』に変わるのです。楚にはこの者を盗人に変える土壌があるのでありませんか」
と言い返した。
楚王は何も言い返すことができず
「賢者とは戯れるものではないな、かえって恥をかいた」
と反省したという。


紀元前500年、病により死去。
外遊に出ていた景公は晏子の危篤を知ると慌てて晏子邸に駆け込んだ。
あまりの悲しみぶりに側近が「礼を失しております」とたしなめたが
「今や私の非礼を諌める人がいようか」と答え晏子の死に大きく落胆したという。

*1:孤児への救護や刑罰の見直しなど、晏嬰の補佐があったとはいえ仁政も行ったが、景公の評価が高くない理由としては、酒好きが高じて国政を疎かにしてしまうことがあり、贅沢嗜好の持ち主であったことを孔子にも批判されているためである。

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